megamouthの葬列

長い旅路の終わり

隣のテロリズム

元々書きたいことはあったが、なんとなく書けないし、それが件の殺人事件の影響なのか、自分でも判然としない。
なので、以下はただのクソエントリであり、覚書でもない。本当は公開すべきものですらないのかもしれない。

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私の高校時代の恩師は、世界史の教師であった。
オウム真理教の一連の事件があって大分たった後であったと記憶しているが、授業の最中、先生が唐突に「テロは歴史を変えない」と憤慨した様子で言ったことがある。
「そんなことは歴史を見ればわかることだ。彼らは歴史を勉強していなかったんだよ」

そういうものかと私は得心したが、歴史を学ぶにつれ、そのターニングポイントに平然とテロ事件があり、それが記録されていることに困惑もした。
サラエボ事件にしても、生麦事件にしても、9.11同時多発テロにしても、しっかり歴史変わってるじゃん、という話である。

だから、私は先生の言葉をそのままの意味で受け止めることができず、「テロは、実行者であるテロリストの信ずるようには歴史を変えない」という所で妥協せざるを得なかった。

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今回の殺人事件にしても、過去の類似の事件にしても、社会から弾き出された人間が、その社会(あるいはその一部であるコミュニティ)を対象としてほぼ無関係の人間を殺すことを、「テロ」と呼ぶことがあるのだが、上記のことがあるからなのか、どうにも私はそれが腑に落ちない。

テロリズムの定義は何か、といった議論をするつもりはない。

実際のところ私にも、コロンバイン高校で起こった事や、宅間や加藤が引き起こした事件、そして今回の件についても、それをテロリズムと呼びたくなる気持ちはあるのだ。

自分を無視した「社会」に対して異議を申し立てるでもなく、その矛盾に目を瞑って生きていくでもなく、ただ「社会」に痛烈な一撃を与えたいと欲し、ほぼ無関係な人間を殺す。

その思考形態や機序は全く理解できないし、殺された人間にとっても、それを見ていた私たちにとっても、どうにもならない理不尽さと、やりきれなさが残る。


しかし、これを「テロ」と呼び、そう捉えた時、彼らが何を信じていたのか、そのような行為をもって、どのような「社会」、あるいはどのような境遇を望んでいたのか、というと、実に心もとないのも事実だ。
彼らは、「社会」に対して理不尽な攻撃を行ったにも関わらず、何かを変えようとしている気配もないし、本質的に何も望んでもいないのではないか、とさえ感じるからだ。

ひどく残酷な物言いを「わざと」するが、彼らはただ自分の「曖昧な」憎しみに従ったのであって、とどのつまりそれは、単なる「八つ当たり」であった。とさえ言えてしまう。

もちろん犠牲者に向かって、あなたは、ある狂人の「八つ当たり」によって死んだのだ、と言うような態度は、冷笑的であることを通り越して、冷酷だし、実に不快な物言いであると思う。

だが、それが不快に感じるのは、起こってしまったことがあまりに重大であるために、事はそう単純で、子供じみた話ではないのだ、と思いたいだけで、つまりは、自分の精神を安定させるための言い訳なのかもしれない、という疑念がどうにも拭えない。

確かなことは、それを「テロ」と呼び、社会的、歴史的、意味を与えているのは、他ならぬ傍観者である私たちであることだ。
つまりは、彼らをテロリストと呼ぶこと自体が、彼らに歴史上の有意味な位置を与えていて、結果として「歴史を変えたテロル」が出来上がっていることになる。

この種の「社会への憎しみによって引き起こされた理不尽な犯罪」を「テロ」と呼び、安易に歴史的な意味を与えることについて私は、はっきりと疑問に思っている。

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昔、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地でクーデターを試み、割腹自殺したという報に触れた時の筒井康隆の談をどこかで読んだことがある。
それは単に
「うわー痛かったろうなあ」
ということであった。

わりと長い文章であったようにも思うが、結局のところ「痛かったろうなあ」としか、その時点では言い及んでおらず、無邪気な悪意を好んでいた当時の筒井の言説にしては何とも締まりがないな、と感じたことを覚えている。

だが私は、今なら、当時の筒井がとった態度が、実にわかる(まさか自分にわかる日が来るとは思っていなかったが)

ようするに、言及する気になれないのだ。
私は、この死を伴う結果を前にして、犠牲者の名誉を汚す気にも当然なれないし、一方で、犯人を憎悪し、排斥することもまた、できない。

だから結局、何も言う事がなくなってしまう。


もちろん「正解は沈黙」という話でもない。

どのような態度でこのような事件を捉えるかは自由であって、私はこれを「テロ」と呼ぶ人を批判する気もないし、「狂人」であるとして、社会のイレギュラー因子として捉える人がいても構わないと思っている。

しかし、少なくとも、残された私たちは、このような事件について、考え続けなければならない、とも思っているのだ。

そうでなければ、この世界で今まさに起こっていること、時勢がいよいよ油断ならなくなっていること、または既に手遅れになっているかもしれない、ということすら見逃してしまうだろう。

自分の中で、この手の犯罪を「テロ」や「病人」や「狂人」という言葉で呼び、それがある種の思考停止の色彩を伴っているのなら、それは十分に用心すべきことなのではないだろうか。