megamouthの葬列

長い旅路の終わり

孤独を巡る物語、その淀み

孤独癖というのがあるらしく、私もそういう性質を持っている一人だと思う。

人と関わるのが嫌いというわけではないが、飲み会だとか、遊びに行くだとか、そういう約束をしてしまった直後から、その予定が妙に気になって、億劫になり、当日になると、何故こんな約束をしてしまったのかと後悔までし始める。

それでいて、待ち合わせ場所に赴き、いざ友人、知人と合流すると、酒が入ることもあって、それなりに、いやむしろ進んで会話の中心になって、楽しい時間を過ごす。

しかし宴終わって帰り道になると、早くもまた元の孤独に戻っている。
あの一言は余計だったとか、場を白けさせた冗談のいちいちを思い出して、やはり私のようなものが、顔を出すべきではないのだ、と思い返す。

いつもこの繰り返しであって、本当のところ、私は自分だけが好きなのであって、他人に興味を持っていないのだ、と考える事もある。

*

私が小学校に入った時分だったと思うが、大阪のあるデパートの賑わいの中に、ぽっかりと空間が開いていた。
催事場の片隅に置かれたベンチに禿頭の男が座っていて、ずっと頭を垂れて、微動だにしない。
それはまるで禿あがった頭頂部を群衆に向けて「近寄るな」と威嚇しているように見えて、男を中心に、賑わいがはっきりと途切れているのである。

私と手をつないでいた父が、それを見て、手を離すと、あろうことか、その禿頭に近づいていって、隣に腰掛け、話かけはじめた。

私は、父がひどく危険なことをしているように感じて、すぐに柱の陰に隠れてチラチラとその様子を伺った。
そこからは父が何を言っているかは聞こえないが、禿頭の男は父の言葉に時々相槌をうっていた。
10分ほど話すと男は、姿勢を変えて、ようやく頭を上げた。
それは疲れ切ってはいるが、存外普通の中年の痩せた男の顔であった。
俄にデパートの催事場の不吉な空気の溜まりが払拭して、雑踏の音がその空間に流れ込んできたような印象を持った。

父は柱の側にいた私のところに戻ってきて、私の手を掴んで、歩き出した。
そしてのんびりした口調で「嫁さんに逃げられたんやってさ」とだけ言った。

*

ヘンリー・ダーガーという画家がいる。彼もまた孤独を望んだ。
病院の掃除人をしながら、日曜になると教会に通った。友人はほとんどいなかった。

彼が「画家」であった、というのが知られたのは死の直前であった。救貧院に移って、大家が彼のアパートに残された所有物を処分しようと中に入ると、そこには大量の作品があった。

「非現実の王国」における「ヴィヴィアン・ガールズの物語」である。今やこれらの一連の作品はアウトサイダー・アートとしてではあるが、美術史に燦然と位置している。

私は、もし今、ヘンリー・ダーガーのような男が日本に生を受けていたら、と考えることがある。

おそらく美大を中心とした美術界は昔と変わらず受け入れないだろう。しかし、ネットなら、例えば、pixivの特殊なタグで繋がれた、ごく限られたコミュニティの中なら、存外沢山の友人を見つけることができたのではないだろうか、と。

非現実の王国はシェアード・ワールドとなり、様々な書き手によるヴィヴィアン・ガールズが、悪しき元都知事の作家に戦争を挑んでいたかもしれない、と。

ネットは孤独をつなぐ役割をすることがある。それは現実に存在する物語でもあり、皆が好んで語りたがる「インターネット」の物語でもある。

*

インターネットでまず流行ったのは匿名掲示板であった。今でもある2ch、その前身であるあめぞうなどだ。

言うまでもなく、それらの特色は、「匿名」ということであった。
何故その時代、皆が「匿名性」ということにそれほどこだわっていたのか、というのがよくわからない。

今思うとそれは、個人にまつわるあらゆるものを投げ捨てなければ自由はない、という少々倒錯した考えが最初にあったようにも思う。
端的に言ってしまえば、日本人にとって、反論を受けない立場で物を言えること、すなわち陰口を叩くのに、「匿名」ということが実に便利であったということに尽きる、という程度のことだったのではないだろうか。

時代が少し下ると、匿名掲示板のコミュニティ自体が個性を持ち始めた。
いわゆる「2ちゃんねらー」の登場である。
この頃になるともはや個人は匿名であることをさらに進めて、「2ちゃんねらー」という全体の一部であろうと奮闘しているように見えた。
意味不明なローカルルールを掲げ、ネットスラング・AAなどを書き込むといった、ハイ・コンテキストな世界に埋没し、真の意味で「個」を消失させていった。

そしてこのソリューションは、「個」を消し去って、コミュニティのより完全な細胞となる、といった、孤独の一つの解消法でもあった。

こういう最中に紡がれた物語として「電車男」がある。
この作品は、コミュニティの一細胞である主人公が、現実と対峙し、コミュニティの力を借りて、現実世界で成功を収めるといった話である。このお話の中で、主人公は個人であると同時にコミュニティに話題を提供する忠実な細胞の一つでもある。

この物語が明るい色彩を持つのは、個を消したコミュニティがまるで主人公に寄り添う親友のように振る舞うところにある。
しかし、孤独の接続装置としてのコミュニティの機能は、むしろ主人公がコミュニティの外である「現実」で恋愛を成就させることを持って破壊されている。これはインターネットの次の段階を示唆していて、おもしろいところでもある。

*

私たちは、少しばかり「インターネット」の物語を信じすぎている。
かつて、私達がそれらを安易に受け入れられたのは、逆説的だが、電子ネットワーク上で行われるコミュニケーションと、現実のそれが質的に変わることがなかったからだ。あるいは、インターネット上のコミュニティと現実の社会構造が思ったよりも似通っていたからだ。

匿名掲示板の後に、実名ベースのSNSが勃興した事も、その2つが基本的には同質であったということを示唆している。


つまりは私達が無邪気に信じている「インターネット」の物語は、テクノロジーが、「本当の孤独」をつなぐ物語ではない。
どこにでもあり得るコミュニティが、それに適した人を受け入れたという物語に過ぎないのだ。


そうなれば、コミュニティに接続できない、「本当の孤独」はどうなるのか、

おそらくそれは、今までと同様社会の片隅にある、淀みとなる他ない。
ちょうど催事場のベンチで頭を垂れる禿頭の男のような。

彼らがコミュニティのコンテキストを理解し、コミュニティに同化できなければ。
あるいは、コミュニティに貢献するようなバカをやってみせなければ。
彼の孤独は放置されたままである。

「インターネット」が機会を与えても、それに応ずることのできない孤独は、まだ存在しているし、機会があった分、おそらくその淀みは私達の想像を絶する暗さを保有しているかもしれない。


孤独を巡る物語は、皆が思い描くようなほっこりするような話ではない。ただ、残酷で、冷たくて、何の救いもない物語なのかもしれない。

最後に魯迅の言葉を

たった一人、見知らぬ者の中で叫んで、さっぱり人々に反応がなく、賛同もされず、また反対もされねば、あたかも果てなき荒野に身をおいたように、手のほどこしようがなくなってしまう。それはどんなにか悲しいことか。かくて私の感ずるものは寂寞となった。(魯迅・吶喊 高橋和巳訳)


孤独ではなく、寂寞を。それを繋ぎ、意味のあるものにする方法を。
私たちは未だ、それを知らないのである。


阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) (岩波文庫)

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