プログラマと出世
就職することになって、つまりは私が職業プログラマになって、それを聞き知った叔父が私を訪ねてきた。
「プログラマってのは、若いうちはいいが、長くはできないんだろう?」
リビングの炬燵に潜り込んだ叔父は寒そうに体を震わすと、最初にそう尋ねた。
当時、業界には「プログラマ35歳定年説」というのがあった。
郵便局員をしている叔父が知っていたというのだから、有名な話だったのだろう。
私は訳知り顔で微笑むと、業界1年目のひよっこなりに考えた、この話のカラクリを説明した。
―――プログラマというのは、システム開発に伴う仕事の中で、単価が最も安い。ようするに給料が一番安いんです。でも、35歳にもなれば、まさか20代と同じ給料というわけにはいかない。35歳相応の給与を貰うためには、プログラマより単価の高い仕事、つまり管理職に「出世」するしかない。つまりプログラマだった人もある時が来ると出世してどこかの管理職になってしまうという話で、35歳になると途端にプログラミング能力に落ちて仕事が出来なくなる、という話ではないんですよ。
そう答えると、叔父は、少し安堵した顔になった。
私は続けた。
―――それに今や、プログラミングの世界も急激に変化しています。プログラマの仕事も上からやってきた仕様書をそのままプログラムコードに翻訳するような単純作業ではなくなっていて、開発を主導して設計までやってしまうプログラマも珍しくありません。僕のいるWebなんかでは特にそうです。20代前半で、アーキテクトや運用まで全部やってる人だっています。だから、35歳になったからって、ビジネスサイドの経験も相応に積んだ彼らが安易にマネージャーになるかってのも、僕は疑問ですね。僕が35歳になる頃にはきっと、現場と経営をつなぐ、プレイイングマネージャー的なポジションが色々なところで生まれているんじゃないでしょうか?
私が自説を述べ終わると叔父は満足げに頷いた。途中からは理解できている様子がなかったが、叔父は、亡き兄の息子である私の行末を心配するのは自分の仕事だと考えている節があって、甥っ子がこれだけ自信たっぷり雄弁に物語るのだ、きっと大丈夫だろう、という印象を受けたようであった。
「ともあれ、就職祝いだ。乾杯しよう」
言って、叔父は持参したビニール袋に入った缶ビールを差し出した。それはまだ冷たくて水滴がついていた。
アルミ缶同士の鈍い音で乾杯をした。やがて母が湯気のたった鍋を炬燵の真ん中に据え置いた。
それから20年余りの年月が流れた。
こうして思い返すと、私の言ったことのほとんどは間違っていた。
こんな給料じゃ、所帯も持てないだろうから、出世させて管理職にしてやろう、なんてことを言ってくれる経営者はどこにもいなかった。35歳の熟練プログラマがやるべきポジションといえば、マネージャーとかリードテックといったものがあったが、それはたたき上げのプロパーが狙うポジションというよりは、LinkedInとか転職ドラフトとか、経営者仲間とか、そういういった伝手から立派な経歴を持った人たちを落下傘で降下させる場所だった。
会社は何歳になろうが、入社始めのプログラマと同じ仕事をプログラマに割り当てた。仕事の難度があがり、FTPとsakuraエディタで戦える戦場が少なくなっても、お構いなしに前線は前進を続けた。たまに利他的な性質をもったプログラマが、本来の業務の合間に、同僚や自分が気分よく生産的に仕事ができるような環境、CIとかレポジトリとかささやかなWiki、エディタの改善などを社内政治を駆使して導入してくれた。せいぜいがそれぐらいだったが、私たちはそういった装備を使ってギリギリの勝機をつかむ、ということを繰り返していた。
各個人の給料は入った時期によって大部分が決まっていて、滅多に上がることがなかった。ビジネスサイドに自分たちがやっていること、Web技術の進化、もっといえば他社の募集相場を説明すれば違ったかもしれない。だが、ほとんどの人がやらなかったし、実際やった者は、会議室から憤怒の表情で出てきて身支度を調えて早退し、その後帰ってくることはなかった。
そもそもプログラマーというのはその素養によって、明確に出来る者と出来ない者に分かれてしまうという現実がある。
出来ない者に対して会社からのフォローは何もなかった。会社は明らかに私たちに「全員が出来るようになること」を望んでいたが、予算的、時間的支援が多くの場合なかった。「出来るほう」ならぬ「何とか最後の自尊心を残している方」の私たちが出来ることは、爆発炎上した案件である豪華客船から投げ出された時、真っ暗な海に浮かぶ救命ボートに新人を乗せて、自分たちは立ち泳ぎをすることくらいだった。
憮然とした顔で救命ボードに乗った新人は恥辱と無力感によって自ら海に飛び込んで業界から去っていった。出来る者もそんな状態でさらに詰まれた仕事に押しつぶされて海底に沈んだ。唯一の幸運な人物である私が、真っ黒な海から新人の乗っていたボートに乗り移ることで会社に残ることが出来た。ボートに乗ってする仕事は、社内インフラの管理、メールアドレスの発行、サーバーの管理保守。そうやって私はいつのまにか35歳になった。
その頃、同期の大半はもう退職していたので、同僚は急遽かき集められた新人たちだったが、彼らとはあまり話す気にならなかった。技術的なことはともかく、この会社で生き残る方法を尋ねられても「今すぐ辞める」という以上にベストな方法がなかったし、彼らからGitHub Enterpriseだの CircleCIだの AWS EKSだのの話をされたところで、宮内庁の宝物庫から皇室ゆかりの品を一般の博物館に出すような努力を要してまですることなのか?としか言いようがなかったからだった。
35歳の私は、無気力で、全てを諦めていて、まるで幽霊のようにそこにいるだけの存在になろうとしていた。だから人事部が開発部のオフィスを見まわして、マネージャーに足る適任者を探そうとしても、誰も見つけることができなかった。多分、その時私はロッカーの陰にでも溶け込んでいたのだろう。
自然の成り行きで、外部からヘッドハントしてきた、総務畑出身の高学歴のマネージャーが開発部長を兼任することになった。
彼は優秀な人間だった、その手の教科書にあるセオリーどおり、私たちが実際にやっていることと、私たちが直面している問題について根堀はほり尋ねてきた。
私は、試しに、彼に自分たちが抱える本質的な問題についてこれ以上なくわかりやすく説明して、意見を求めた。
どうして私たちの人員は減らされていく一方なのか
どうして私たちの仕事の難度と求められる業務範囲が再現なく広がっていくのに、それに対する支援がないのか
どうして私たちが困っているという現実を誰もが見て見ぬふりをするのか
具体的な事も言った。例えば、営業がサーバー運用予算をとらなかったせいで、自前でサーバーの運用保守していたのだが、担当の新人が来月辞めることになっていて、その補充が来る様子もないのだが、どうすればよいだろうか、といった話だ。
マネージャーは微笑みだけを浮かべて返事をしなかった。代わりに、概念的な工数管理の話をした。つまり今ある仕事の工数が10として、それが納期どおりに出来ないなら、各人の工数を+2すれば良い。それが難しいのであれば人を増やせば良い。彼にとって、同じ利益を生む仕事は2000年でも2020年でも10のままで、プログラマの+2の工数はだれがやっても+2なのだった。あとプログラマは無尽蔵に採用できるという前提も含まれていた。マクロの視点ではそうかもしれない。だが、開発部はたかだか5名の小所帯で、応募してくるのはスクール育ちの未経験だけだ。
結局、マネージャーは目標管理シート.xlsと工数管理システムの信じがたいUIを置いて、マイホームである総務部の財務部門に帰っていった。
私は年長者らしく、工数管理システムの厳密な入力を求め、大半のプログラマが要素技術の調査に一日の半分の時間を割いていることに感心し、正直にそれを報告したが、それによって、全開発部の査定は1段階下げられた。案件関与率が低い、という評価だった。つまりは流れている製品を加工するロボットアームが日の半分も止まっているようでは話にならんよ。ということのようだった。
あまりにも私たちの常識から外れているものだから、逆に、出世して見える景色とはどのようなものだろうと考えることがある。どうすれば一番合理的にプログラマーという人種を上手く扱えるだろうか。
会社にとって、システムは納期が来ればなんなく出来るものだった、もし出来なかったとしても、他のベンダーをのんびり探す以外に、彼らが取る手段もなかったから、いずれにせよそんなリスクを想定することは無意味だ。システムを絶対に完成させなければならないし、そのためにプログラマーを雇っているのだ。
プログラマは会社のデスクとウォーターサーバーを往復する不機嫌な機械と変わりなかった。彼らに残業を命じる。完成は義務で、他に手段はない。時々、限界を迎えた一人が徹夜明けに、オフィスのアルミ製のゴミ箱を蹴っ飛ばすが、大きな音がするだけだし、使い物にならなくなったゴミ箱は買い直せばよかった。
あるプログラマが怒って、あなた方は私たちの経験を過小評価している、少しは給料を上げてくれても、労働環境を良くしてくれてもいいじゃないか、と訴える。
管理者はさも意外な顔で、不満なら独立すればいいじゃないか、そのスキルがあるなら、それだけでよほどいい暮らしが出来るんじゃないのかね?と言って、業務委託の直接契約に変更して会社に残ることを勧める。確かにそうすれば希望の年収は手に入るし、仕事の内容は同じだし。本当のフリーランスのように営業をする必要もない。
リーマンショックとか、今回のようなコロナみたいな不況が来ると、正社員でなくなった彼らの多くは一斉に契約を延長できずに会社を去ることになる。放たれた不景気の荒野に他に仕事はなかったから、多くのものが、SESや人材派遣のような非正規職についた。
やがて嵐が去って、景気が戻ると、生き残りのプログラマたちを、経営者がニコニコ顔で迎え入れる。「やはり安定が一番だろう?」
砂漠の10年で顔に深い皺を刻み込まれた35歳のプログラマは黙ってうなづく。彼らが再び正社員としてコードを書き始める。最初と違うのは、彼らは一様におとなしくなって、待遇に不満をもつこともないし、もし不平があったとしても、それは聞くのは同じ深い皺のあるWebディレクターになったということだ。職場のゴミ箱はもう壊れなくなった。
うん。申し分のない眺めだ。
思うに、私たちのどこかが、きっと致命的に悪いのだろう。ビジネスサイドでもテックサイドでも、みんなきっと間違えた事をしてしまったのだと思う。TOEICで満点を取ったことのない人間に不平を言う資格はないということなのかもしれない。
だからちゃんとTOEICのしけんがさいかいされたら、しけんをうけにいこうとおもうのです。