ソリティアおじさん
中年になったのでソリティアおじさんになりたい、と思った。西日差す窓際で、Windowsに入っているソリティアというゲームを日がな一日やり続けて、給料を貰っているおじさんにである。
ソリティアおじさんは伝説の存在だ。私も実は、目にした事はない。主に大企業にいたらしいので、就職活動すらしなかった私には縁遠い存在なのだ。
私が実際に見たことのある一番ヤベえおじさんは、CASIOの電卓を超高速で叩きながら、その計算結果を一つ一つ手入力するExcel手入力おじさんだった。
おじさんのExcelには数式がない。全てはおじさんがテンキーを叩いて入力したものだからだ。
一つセルを打ち間違えたり、後で訂正が入ったりすると、当然合計値を入れるセルの数値も変わってしまう。それを、おじさんは(Windows付属の電卓アプリではなく)CASIOの電卓を叩いて計算し、LCDが表示した内容をパソコンのテンキーで写し取って修正する。ほかに合計値を使っている場所があれば、そこも修正しなくてはならないから、二十世紀最大の発明である表計算ソフトのアルゴリズムを、おじさんはひたすらキーを打ち続けることで辿るわけだ。
この行為はとめどない無為と呼べるものだが、とはいえ、ソリティアおじさんが抱える巨大な虚無とは比べようもない、と私は考えている。
実際、外から見て、Excel手入力おじさんはいかにもせわしげだった。オフィスに響き渡る16ビートめいた打鍵音は、こうして一生懸命働いているのだからわたしをクビになんてできないでしょう、けしてそんな無体なことを考えないでくださいよと、どこかにいる上司へ一心に口上を述べているようで、はっきり言えば、まるでなってなかった。
私がなりたいのは、ソリティアおじさんだ。
まばゆい逆光を背景に、スーツがきまった背筋をピンと伸ばし、ディスプレイを見つめて、マウスクリックの感触を全身で確かめるように、厳かに、慎重に、電子のトランプをスペードの5に運んで、そのクロンダイクの一手一手を、何人も妨げることができない、なぜそれが許されるのか、それでどうして金が貰えるのか、社内の誰一人としてわからない、孤高のプロゲーマー、あのソリティアおじさんになりたいのである。
ソリティアおじさんが登場したのは、90年代後半から00年代前半のことらしい。
インターネットとWindowsがオフィスに広がり、伝説のLotus Notesが、あるいはNEC渾身の情報共有基盤StarOfficeが、イントラネットを駆け巡ったあの日に、夏の強い日差しが、麦わら帽子をかぶった白いブラウスの美少女の隣に黒々とした影を落とすように、ソリティアおじさんもまた巨大なオフィスビルの片隅に生まれたのである。
今では想像すらできないことだが、オフィスのIT化に伴って、最初にネックになったのは「マウス」だった。
シングルクリック、ダブルクリック、ドラッグ・アンド・ドロップ、そういったマウス操作はPC強者の誇るべきスキルであり、少なくともおじさんの手に負えるものではなかった。
おじさんたちは部下が共有フォルダに置いたファイルを開くために、ファイルを選択状態にし、次にはデスクトップの虚空をドラッグして神秘的な矩形を描き続けた。
いつまでも繰り返す悪夢のような日々に終止符を打つべく、部下は上司に、僭越ながら、と断って、スタート>ゲーム>ソリティアのシーケンスを教えた。
おじさんが肩を不自然な方向に曲げて苦労して、アプリの起動に成功すると、デスクトップに緑色のテーブルとトランプが映し出される。遊び方はF1キーで表示されます。
部下は娯楽をおじさんにあてがったわけではない。
ソリティアを起動したのは、おじさんがさしあたり覚えなければいかないことの全てを、このゲーム、ソリティアは備えていたからだ。
カードを選択するのはシングルクリック、組札に移動はダブルクリック、まとめてカードを移動(ラン)はドラッグ・アンド・ドロップ。ゲームを遊ぶことで、全てが学べる。それがソリティアなのだ。
おじさんは喜び勇んで、ソリティアをプレイし始めた。部下はデスクを離れ、自分の仕事に戻った。昼休みが過ぎ、労働組合の放送があり、定時のチャイムが鳴り響いてもおじさんはソリティアをプレイしていた。部下は仕事を首尾良く終えることができて、おじさんに頭を下げて職場を出て行った。
明くる日も、そのまた次の日も、おじさんは教えられた通りソリティアをプレイし続ける。数千回のクロンダイクが行われ、山札は絶える事なくフリップし、大胆なランが実行される。
齢50も過ぎた、円熟した男性の純粋な行いが、その祈りに似た作動が、修養と礼式を獲得し、やがて、神性を帯び始めるのに、それほど時間はかからなかったはずだ。
2020年。オフィスすら、あやふやになった時代で、私はソリティアおじさんになれていない。
ソリティアはWindows10プリインストールゲームから消えていて、Windows Storeからダウンロードできるが、Microsoft Casual Gamesとして、ソシャゲの要素が取り入れられ、広告が表示されるようになっている。もはやそこに往事の面影はなく、ただ無為で死んだ時間が横たわっている。
代わりに私は、Google Collaboratoryを開く。Jupyter Notebookのテキストエリアに、どこかで聞きかじったコードを貼る。どこかで作られたHDF5形式のファイルをダウンロードする。
Googleのデータセンターの奥深く、目の飛び出るほど高価なGPUでそれらを実行して、私は結果を目撃する。それは、Qiitaで見たとおりの出力で、その意味も、どうしてこうなるのかも、根本的のところ、これが何なのかすらわからない。
明くる日も、その翌日も、私は、それをする。私より若い誰かが作ったニューラルネットワークと、巨大なデータセットに思いをはせて、無為に、訳知り顔で、呆然と、時代が変化していく不安を抱えて、それをする。決して届かない場所があることを、この行為は教えてくれる。
やがて、窓から西日が差して、私の顔を赤く染める。自宅のデスクトップの向こう側から、それを見た者がいたなら、きっと私はGoogle Collaboratoryおじさん。ソリティアおじさんと同じ面持ちをしていることだろう。
私は、それを恐れて、一方で、それを望んでいる。