megamouthの葬列

長い旅路の終わり

氷河期世代に告ぐ

曖昧な男だった。
真っ暗な客席が取り囲む舞台の中心に立って、スポットライトで照らされた黒いスーツの輪郭が、強すぎる光に半ば溶けていた。

男は手を後ろにまわして、観衆の凝視を楽しむように、静止している。
時々、遠くを見るように顔を上げ、肩より上のシルエットを整えた。他の者がこれをすれば、あるいは落ち着きを失っているように見えたかもしれないが、この男の場合、所作があまりに堂々としているので、かえって油断ならない印象になった。

客席の暗がりに黒い頭が幾つも見える。それらは管理された動物のように整然と並んでいて、いくつかが耐え難くなってうつむいてしまう他は、動きがなかった。

男がゆっくりと観衆を見回した。
視線を向けられた者たちが息を呑むのが伝わってくる。しかし、男はすぐに興味を失って、中空に視線を戻してしまった。

ほんのわずか、落胆する声が漏れた。その小さな嘆息が、場内を駆け巡って、やがて、男を照らすライトの中に集まって、消えた。
そのタイミングを見計らって、男は沈黙を破った。

親愛なる諸君――

*

今、私の前にいる青年は、この一ヶ月、8時から夜の10時まで働き、毎日の食事も簡素にすませており、贅沢な旅行もしていない。

しかし今、彼の財布に残されているのは、食事付きのホテルで一泊してワインを楽しむのがやっとの金だ。
貯金をしたのではない。投資をしたのではない。ギャンブルに負けたわけでもない。
1ヶ月の過酷な労働の対価を元手に、ただ生き延びるために消費をした。
その結果がこれなのだ。

盗賊が大挙して、この勤勉な青年から金を盗みとっているのだ。

盗人の一人はこれを再分配の原資や社会保障だと言って、労働の報酬をかすめ取っている。
違う盗人は、仕事終わりに調理せずにすむ食事を深夜でも買えるようにするには、相応のコストがかかるのだ、と言って、ひどい味わいの、化学物質まみれの食品を法外な価格で彼に売りつける。
また違う盗人は、高価な通信端末を提供し、ネットワーク網を維持するためだと言って、口座からなけなしの金を引き落としていく。


幸いにも、我々は互いに助け合うことを知っている。
この苦痛と、不運を、共に嘆き、悲しむことができる。
ある日には政府を、またある日には巨大資本を、辛辣な言葉で批判できる。

しかし、なぜ我々がお互いの困窮を慰めあわなければならないのか?

もし、自分の金庫から財産を盗まれたのであれば、すべきは、その悲しみを皆で共有することではない。不平を言うことでもない。盗人を探しだし、その首根っこを掴むことだ。


我々は今、強い不安の元にある。
将来の見通しも、ささやかな幸せも、心からの満足も、どれ一つとしてない。

全て奪われてしまったのだ。我々にはそれを持つ資格がないと、権力によって当然として、まきあげられたのだ。
そして、権力は我々から取り上げたものを、異なる人々に、我々のように困窮していない人々に、気前よく分け与えている。

それは彼らが行政と呼ぶ、自らの非効率に目を向けようともしない者どもの、特権的な雇用を保障するために使われている。
それは彼らが産業振興と呼ぶ、我々に惨めな給与を支払う、巨大資本をさらに肥え太らせるために使われている。
それは彼らが福祉と呼ぶ、かつてこの国を支えたと称する、何ら生産性を持たない者を生き長らえさせているために使われている。

彼らは、このシステムを誰しもが恩恵に預かれるもので、かつ、持続可能なものだと主張している。

その言い分に従うならば、もしこれが、約束された安寧の準備で、一時の窮乏であるならば、我々世代の抑制された心性は、それに耐えることができるかもしれない。

しかし、果たしてそうだろうか?
システムが維持され、我々が老人になった時にも、同じ恩寵を与えられると、そのうちに、我々があちら側に回ることが可能だと、この国がその能力を有していると、我々が信用できる根拠を、この政府は一度として示したことがあっただろうか?

もしここに政治家や官僚がいれば、それは示されている。過去に示したことがある、と断言するだろう。

年金の受給年齢が引き下げられるのは、我々が健康になったからだ。
税金を引き上げるのは、我々の所得が向上したからだ、と考えてもかまわないだろう。
食品の価格が上昇するのは、我々が少食になり、調理によって食材を節約する術を手に入れた結果だとも言える。
社会保険料が年々釣り上がっているのは、我々が高度な医療を歓喜して迎え、今いる老人たちにさらなる長寿を願った結果としなければならない。

はたして我々は彼らを信用し続けるべきなのだろうか?
この社会は信用に値するだろうか?


今、我々は完全なる民主主義国家で暮らしている。
国会にいる政治家は我々の公正な投票の結果によって、その権力を保証されている。
彼らの決定は間接的に我々の決定であり、彼らの失敗もまた、我々の失敗だ、というわけだ。


我々は様々なものを信じたことがある。

経済の構造を変革すれば、あるいは通貨の発行量を操作すれば、再分配のルールを調整すれば、この国は昔日のような繁栄の途につくのだと、あるいは今ある凄惨な衰退を食い止めることができると、無邪気に信じたのだ。

しかし今、この荒廃し、赤錆びた都市で、結婚もできず、子供も産めない、この世界のどこに、約束された幸福を見いだせば良いというのだ?

我々は誤った、と後世の歴史家は言うのかも知れない。もし、我々に充分な選択肢があったのなら、その主張も一定の真実を帯びるだろう。

もちろん実際は違う。
我々に選択の余地などなかった。
我々ができたことは一つ。何もする気のない保守政党と、能力のない革新政党との稚拙なゲームのどちらか一方に、玩具のチップを賭けることだけだったのだ。

いったい、これは選択なのか?
このプロセスのどこに、民主主義が標榜する、人民の、人民による、人民のための統治があるというのだ?

スキャンダルに顔をしかめられる権利を、出来レースの結果を見て一喜一憂するだけの権利を、どのように解釈しようが、それが選択でも信任でもないのは明らかではないか。


今ある民主主義と、それを前提とした権力を我々は保証したことがない。
一方で、歴史によって、憲法によって、法律によって、システムによって、それは保証されたことになっている。
全ては我々の選択であり、責任なのだ、と見なされている。
目の届かない暗がりで、他ならぬ分配を受けとる側の人間が、実際の施政のことごとくを決めてきたにも関わらずだ。

だからこそ今、我々の苦しみが自分たちの下した決断によるものだ、という空疎な主張は、きっぱりと否定されなければならない。
この現実を結果として受け入れるべきだ、という浅はかな詭弁は、断固として拒否しなければならない。


我々はもう十分に耐えた。
苦痛と困窮を飽き飽きするほどに味わった。

今こそ我々は行動しなければならない。
奪われたものを取り戻さなければならない。
もはや現在の権力と、その受益者に対する憐れみは、一切が不要である。

どのような方法であれ、機能不全に陥った政府機能を、我々の理性的で、平等な政治に入替えることに道義的懸念はない。
歪みきった社会構造は振り下ろされた我々の拳によって粉微塵に破壊され、未来の、我々の子らのために再構築されるであろう。
我々は資本家どもが首都に集積した富を、今や詩的な響きを持ちはじめた旧世界の地方都市に分配することができる。
旧権力が国民からかすめ取っていた財産は、我々が新たに打ち立てた、公正で正統な政府によって元の持ち主に返還されなければならない。


氷河期世代に告ぐ。

お前たちが旧世代から受け継ぎ、今まさに維持しているこの社会システムこそが、先に、我々を攻撃したのだ。
我々は誇り高き理想と不退転の意思をもってこれに反撃し、粉砕するつもりだ。
お前たちの放埒なまでの無責任と、卑劣な不作為によって、荒廃した世界を、我々は団結して再生する。

彼岸に渡った旧世代の暴虐を、その価値観に安住し、ことごとく見過ごしたお前たちの罪は、今まさに、この時、そそがれることになる。


2049年9月1日。5時45分。ただ今をもって我々は反撃を開始する。

*

観客席のミュートが切られ、耳をつんざくような歓声が流れた。
カタルシスの予感に身震いし、ただ感情のままに発せられた声の集合だった。

男は満足そうに頷くと、腰のあたりで軽く右手を上げ、その姿のままスポットライトの光輪に染み出すように消えてしまった。
少しして、会場の照明が落とされ、視界は暗闇に包まれた。



1970年代生まれの老人は、旧式のVRセットを取り外して、汗を拭った。
午後6時前、薄曇りにさえぎられた青い夕日が、10年代に作られた薄汚れた室内を照らしている。

しわだらけの手が震えているのに気づいた。夕食後の自由時間、施設の皆も部屋で同じVR放送を見ていたに違いない。
一刻も早く、談話室でこの件について話し合わなくては、と思った。

関節痛で動きにくくなった足を奮いたたせて、老人は自室のドアに向かう。
ドアの先にある廊下を複数の足音が駆け抜けていって、驚いて足が止まった。首をすくめて外の様子を伺う。

隣室のドアが乱暴に開けられる音がした、若い男の集団と、老婆が振り絞る、蚊の鳴くような声が口論しているのが聞こえる。
不意に、男たちの怒鳴り声が止まった。

何かが破裂するような音がして、静かになる。

老人は、ドアを開けるのをあきらめて、同じような足取りでゆっくりと部屋の奥にあるベッドに戻っていった。
静かに横たわって、赤ん坊のように体をすくめる。
昔も、ここでない場所で、よくそうしていたのを思い出した。

自分の部屋のドアが、金属のようなもので乱暴に叩かれ始めた。

さて、あの頃は何から逃げていただろうか、現実から目をそらし続ける頭が思考に沈む前に、視界の端で、はね飛ぶようにドアが開かれるのが写った。


帰ってきたヒトラー 上 (河出文庫 ウ 7-1)

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