megamouthの葬列

長い旅路の終わり

自己愛サークルの薄気味悪さ

身内が亡くなったので、久しぶりに実家に帰った。
私と母はほぼ絶縁状態にあるが、火事と葬式だけは顔を出さなければならない。

葬儀はしめやかに執り行われ、私は実家に帰って、ネクタイを外して、母の淹れた茶を飲んだ。

茶飲み話で母は私の近況を尋ね、私はそれを適当に受け流していたが、身内を亡くしたという事実か、あるいは私の態度か、もしくは私の現況のどれかが彼女の精神のピークを上げてしまったのか、やがて言葉が止まらなくなった。

彼女の話は、貧しかった幼少期から始まり、高度成長期の狂奔じみた時代を駆け抜けた苦労に達し、結婚生活で不幸な境遇を耐え忍んだ話に至る。

そういう長い前置きが終わってようやく、話は私が大学を中退して、酒をかっくらってフラフラ生きているという否定しがたい事実に達するのだが、冷静にそれだけを咎められれば私にだって言い分はあるのだけど、決してそうでないし、相手の口調が怒気をはらんでいるので、形だけ慎ましくなって、ふんふん、と聞くよりない。

正直言って、相応に苛ついてくる。

この長々としたスピーチが言わんとすることは「だからお前と違って私は偉いんだ」ということであり、噴出する感情と息子に対しなくては、それを表現できないところに、我が母のことながら、やるせない気持ちになってしまうし、彼女の話をどう冷静に受け止めても、結局のところ、それは強烈な自己愛の表明でしかないからだ。

今はそれを「モラハラ」と呼んだりするらしいし、私の母を「毒親」という言葉で表現することも可能なのかもしれないが、なんとなく、私はそう断じてはいない。

ただ、彼女の報われない自己愛の行き場と、最終的には孤独に至った境遇を思って、哀れになり、ひたすらにくたびれてしまう。

*

最近、有料セミナーやら講座やらで、コネクションやプログラミングの知識が、ある種の商材と化してしまって、そのようなビジネスをしている人々をtwitterなどでよく見かけるようになった。

実際を知らないが、それは単に某南国のトマト農家が始めたビジネスの形態をブログ講座からプログラミング講座に変えただけのように見える。

ビジネスの元締めである主催者が、サロン会員や受講生が何百人に達したとか、今月のテックブログの収益はお幾らです、などと、金の話をやたらとアッパーな口調で書き込むのも共通しているし、その書き込みに大量のFavがつき、先達や受講生がそれを上から下から褒めあう光景があるのも同じだ。

私は爾来、金儲けに興味が薄いし、縁がないもの、と諦めきっているので、そうした儲け話の結果を見ても、「住民税と国民健康保険料がすごい額になりそうだなあ」としか思わないのだが、(不思議と彼らの金持ち友だちがそういう指摘をしているのを見たことがない。さすがにそういう話は控えているのかもしれない)何故そんな話をする必要があるのだろう、と怪訝に思う。

私が考える金持ちというのは、人工衛星が地球のまわりを回り続けるように金を増やしていく人々であって、いちいち、金をこれだけ使った、1日でこれだけ儲けた、とアピールしたりはしない。
事実、私は仕事の縁で、幾つかのビルのオーナーである生来の金持ちを知っているが、下手をすると家族が誘拐の対象になってしまうと、むしろ金の話をすることに臆病であった。

だから、彼らのそういうアピールの目的は、アムウェイのなんとかダイレクトディストリビューターが高級外車に乗る意味あいの他は、結局のところ自己愛の充足にあるのではないか、と勘ぐってしまう。

仮にそうであったとしても、私を貶めながら自己愛を充足している母に比べればまだマシだし、無縁な世界なのだから放っておけばいいのに、どうにもモヤモヤする気持ちが残る。

そこには、自己愛一つ、誰かを貶めることなしに、自分ひとりで何とか出来ないのか、という単純な苛立ちがある。

*

彼らの称賛のしあいっこには、当人がいくら否定しようが、「会社に束縛され、毎日働いて生計をたてている人」への隠し切れない軽蔑がある。

彼らは自分たちが自由であることを強調する。あるいは自由になれることを喧伝する。
「金は自由になるための道具である」とは青木雄二の言葉で、それは一面事実であるが、それは自由でない人を貶めることを何ら正当化しない。

あるいは、貶めているのではなくて、新しい生き方を提案しているだけだ、と言うかもしれない。
しかし「自由」というものを、何の代償もない、特権のように扱う事はニート歴10数年の私に言わせれば、はっきりと、間違いである。

「自由」とは「無縁」であるということでもある。少なくとも自分の嫌いな人間と付き合わなくて済むという意味合いを持っている。

だが、そんな都合の良い生き方は多くの危険をはらんでいる。

例えば、クリエイター向け有料サロンの題目に「お互いのスキルを尊重しあいましょう」と書かれているのを見たことがある。
もちろん、それ自体に異を唱えるものではない。
だが、クリエイターが本当に技量を単に「個性」として受容するのであれば、酷な意見を排除するのであれば、耳障りな評価を不当なものとして、クライアントをクソ呼ばわりするのであれば、それは創造を通して外部に価値を提供するクリエイターとしての存在の死をも意味しないだろうか?と考えるのである。

そうならないよう、自由な人は、常に自分を省みつつ、あくまで謙虚に、薄ら暗い裏路地を歩んだほうがいい、とさえ私は思っている。

彼らは金の有り無しで人を軽蔑したりはしないのかもしれない。また技量が拙くてもそれを咎めたりもしないのかもしれない。
しかし、「自由」であるかそうでないか、という意味では、はっきりと人々を区別している。
そして「自由側」にいる人々同士が、一斉に自由を賛美し、また一つ我々は自由になれた、そうでない人は早く目を覚まそう、と言い合っている光景は、私が愛する「自由と無縁」の概念を軽々しく冒涜しているようにも感じてしまう。

そして、甚だしくはその行為の動機と目的が、単なる自己愛の充足にあるように見える。

だから私の偏屈は、そのような光景を見て、つい、いい加減にしてもらえないだろうか?と思ってしまうのである。


自己愛人間 (ちくま学芸文庫)

自己愛人間 (ちくま学芸文庫)