megamouthの葬列

長い旅路の終わり

ロスト・ジェネレーションの詩

gendai.ismedia.jp

もはやロスジェネはあきらめ始めた、という言葉にジーンときたので、読んでみた。
この記事に出てくる「中年フリーター」氏とは共通点がある(頑張ってるうちに精神を病んで社会から離脱したところとか)私だが、なんだか記事自体はあまりぴんと来なかった。

一つは、記事の多くを政府の無策に費やしている点で、もちろん、その意義は理解できるのだけど、私たち(主語を大きくしてすまないが、それに同意してくれる人たちのために書いているつもりだ)が、それこそとっくの昔に「あきらめた」ことなので、こうして今でも怒ってくれるのはありがたいのだが、正直な話、今さらどうでもいいことだ。

もう一つは、私たちへの救済の形として「安定雇用」を掲げている点だ。
それも何だか落ち着かない。もしも私たちが、9時5時勤務のホワイト企業に、住宅ローンを組めるような会社に40代の身空で入社できたとしても、まるで中学校に小太りの中年が混ざって授業を受けているような気持ちになる。他の世代の見え透いた侮蔑や哀れみを視線の奥に感じながら、楽しくやっていけるように思えない。私たちに残された時間とそれで為せることを思った時、むしろ、より惨めになってしまう気がする。

ブコメを眺めて、「ロスジェネに救済なんていらない。社会に出ずに無能な中年と化した人間なんて放っとけ」という趣旨の意見があって、ひどいなあと思うけど、こうして実際に腹の出た中年がうじうじしているのだから、そう罵倒したくなる気持ちもわかる。

でも、私たちだってわからないのだ。私たちがどうして欲しいのか、あの苛烈な時代の代償を、残りの人生でどう取り戻せばいいのか、皆目わかっていないのだ。


私たちが今もこの社会の片隅でフワフワと漂っているから、私たちを焚き付けて、反体制や自分の利益の為に、走狗として操りたいという輩も沢山いる。

彼らにしてみれば、私たちはいつか不満を爆発させて、テロの一つでも起こすような存在に見えるのかもしれない。

私はテロリストではないので想像だが、テロリストになるにもそれなりの条件というものがあって、社会への憎悪だけで、人はテロリストになるわけではない。
アルカイーダやISや、かつてのIRAのように実際にテロを実行させるに足る、それが意義深いことだと信じさせる、大義や思想があって、さらに、その大義の為に何らかの実力を行使できる手段と、その手引きがなければ私たちはテロリストには決してなれないだろう。

私たちに思想はない。必死に生きていたら、こうなってしまっただけなのだから。
袋小路に迷い込んだ昆虫が、迷路を作った存在に噛み付く正当性を見いだせないように、前に進むことも引き返すこともできなくなってしまった私たちも、同じところをぐるぐる回り続ける。

私たちに手段はない。ダイナマイトの作り方を私たちは知らないし、誰かが教えてくれるわけでもない。火炎瓶なら調べれば作れるかもしれないが、それもなんだが面倒くさい。

そういう大それたエネルギーはとっくの昔に長時間労働とか、学習性無気力とか、薄暗い自室でうずくまっているうちに、すっかりなくしてしまったのだ。

ほんの少し残ったエネルギーもTwitterとかブログとかブコメとか、そういうところで、表現の自由とか、男女同権の原則とか、旧世代が作ったみすぼらしい正義に乗っかって、ほとんど意味のない言説と議論に費やしてしまう。

だからきっと、私たちは死ぬまで大したことは何もできないだろう。
仮に火炎瓶を作れたとしても、投げつける相手が思い浮かばないのだ。

生活保護をくれない、いじわるな役所の窓口でお手製のモロトフ・カクテルを取り出したとしても、そこにいるのは、私たちと同じ非正規の職員たちだ。
果てしない議論の果てに、憎悪を駆り立ててくる相手だって、自分よりほんの少しうまくやれただけの、同類にすぎない。

私たちはそうやって退屈をまぎらわせて、やがて寿命が尽きるのを、誰かがやってきて、私たちの原罪を裁いてくれるのを、ずっと待ち続けている。

私たちの本当の物語は、こうなってしまう前の40年間にとっくに終わってしまったのだろう、と思う時がある。

夢見がちな幼年時代があって、青春の懊悩があって、その間ずっと繰り広げられていた大人たちの繁栄を横目に見て、くだらないなあ、と感じて、でもそのうちあっち側に回ればきっと何もかもがいい思い出になるのかもしれないと思って。

出てみた社会は何故だがひどく冷たくて、終電を待つ駅のホームで脳が火花を出して、若い身体が悲鳴をあげる。やってきた電車になだれ込んで、ずっと車窓を見ていると、街は真夜中だというのに明るくて、走る電車から一瞬だけ、奥へ奥へと続く大きな道が見えて、この道の先には何があるんだろう、いつかあの道をどこまでも歩いて行きたいなあ、とぼんやり思って。

家にたどり着くと、着替えもそこそこにベッドに横たわる。昔好きだった音楽をかけて、撮りためたアニメを再生して、そのうちまぶたが重くなって眠る眠る。

私たちの物語というのはこんな風情のものだ。預金残高数万円と孤独だけを残して、私たちはそういう物語を生きた。

哀れみを買いたいわけでもない、巨大な慰霊碑を作ってもらいたいわけでもない。ただ、そういう物語を生きた人々がいたことを、せめて、誰かが覚えていて欲しい。

だから私たちは一遍の詩にすぎない。そしてそれで構わない。と私は思っている。