megamouthの葬列

長い旅路の終わり

狂気の国のメリー年度末

スーパーの納豆売り場で、店員は品出しに夢中でこちらを振り向こうともしなかった。
私が買い物カゴを持って、物欲しそうに見ていても、店員は売り場を大量の納豆パックが入ったトレイで封鎖していて、客が商品を吟味できるスペースを作ろうともしない。
仕方なく、横の棚から手をのばして適当な納豆パックを手に取った。値札を見ると88円であった。私が売り場を離れても店員は黙々と納豆パックを積み続けていた。

何事にも限度というものがある。

この文章で言いたいことはこれに尽きるのだが、さすがにどうかと思うので、以下長々と書く。


不親切な技術者を私は嫌悪していた。非専門家のクライアントやPMの曖昧なオーダーを前に、ただ「出来ませんよ(理由は言いませんが」とだけ述べて、解決策や妥協案を提示するでもない、という態度を非道義的なものと捉えてきた。

例えば、最近見たメールのやり取りで言うなら、DNSレコードの設定を依頼されて、3日待たせたあげく、ルートドメインにCNAMEを指定することはできません、というメールだけを返すようなことだ。

私がこの態度を嫌うのは、「わかんねえ奴は勉強してから来いや(素人乙」と言わんばかりの選民思想が鼻につくということだったり、いい大人がみっともなくビジネスに対する想像を欠いていることだったりするのだが、それを差し引いても、なにより非生産的だと感じるからである。

クライアントやPMが専門知識を持たないことにはとっくに慣れている。彼らがいつまでたってもDNSTLSの概念を理解しないのは同意する。ただ、だからといって、彼らが学ぶのを待っている暇はないし、ビジネスプロセスが止まって割を食うのはエンドユーザーであることを忘れる訳にはいかない。
頓珍漢なメールが来ても、内容を汲み取って、それでもわからなければDo you mean?なんたらこうたら、やりたい事を聞き出す、といった建設的なやりとりをしたほうが、結局は仕事が終わるのも早くなるのに、と思っていたからである。



しかし、ここ数年の私はその不親切な技術者そのものである。

何故ならそうやって親切をした結果、痛い目に何度もあってきたからである。

www.byosoku100.com


言及するかしないか迷った(実を言うと今も迷っている)が、このid:floyd0氏のエントリに、私は心胆を冷やした。その壮烈さとは別に、実に身に覚えがあったからである。

id:floyd0氏には大変に、大変に申し訳ないのだが、上記のエントリで滔々と述べられている苦悩を、矮小化する危険や誤解を恐れずに集約するなら次の一点につきるだろう。

親切でやってあげた仕事に対して、その好意を無下にするような仕打ちを受けると
頭がおかしくなる。

ということだ。
先程の例で言うなら、ルートドメインにCNAMEは指定できません、のでCNAMEを正引きした結果のAレコードを指定するのでいかがでしょう?と言ってみたら、
「なぜ出来ないのですか?CNAMEが指定できないのであれば、CNAMEで指定するところのexample.comIPアドレスの変化に追随してDNSレコードを書き換えるシステムを作成してください(お金は出しませんが」と答えられる、ということである。
もしそんな返事が返ってきたら、私はその瞬間に、先方のメールを全てゴミ箱に直行させる振り分けルールを作成して、PCを置き去りに、南へ旅立つだろう。きっとそこは暖かいだろうし、なによりネットがないという安心感がある。

ようするに、技術者の好意に覆いかぶさる、という行為は、子供を助けるために燃えさかる炎の中に飛び込んだ消防士を、「救助の仕方が悪くて子供が怪我したじゃないか」と罵るようなものだ。
当然、図に乗るな、ぐらいは言いたくもなる。実際には大人だから言わないんだけど、そうやって我慢しても、こういう体験は理不尽な罰として学習性無気力を引き起こすし、「だったら二度と人助けなんてするもんか」と考えるように仕向けてさえいる、つまりは職業人に対して、実に非道義的になるよう訓練しているのに等しい、のである。


年度末に考えるのに良いテーマではないが、なぜこのようなムゴい事が起こるのだろうかと考えると、単純にキャパシティを超えた仕事があるからだろう。
忙しくて他人にかまけている時間がないのだ。

営業は年度末の稼ぎ時に、今までの失点を取り返すために闇雲に仕事をとりまくる。あるいは、ようやく構築した顧客とのコネクションを切らないために、アホみたいな納期と価格の仕事を引き受けざるを得なくなる。

マネージャーは降り注ぐ仕事に翻弄されて、メールの内容を吟味する時間もない。技術的な齟齬や確認すべき事柄をそのままに、顧客からのメールを一文「下記お願いします」とだけ書き添えて技術者に転送する。

プログラマは雑な指示と、誤魔化しのきかないコンピューターの間に置かれて、頭を抱えるしかない。そもそもコミュニケーションが苦手だからこの仕事やってんすけど、と考えながらできる限り端的なメールを書いて、詳細な仕様を確定するようマネージャーに要請する。

そのメールは、プログラマの硬い文体を維持したまま巡り巡って顧客にたどり着き、一週間もすぎた頃には、顧客直々の「専門的すぎて意味がわかりません」というメールが返ってくる。Fwd:Fwd:Fwd!


デフレ経済下では、シュリンクする市場の中で、放っておけば売上は必ず下がる。縮小する宇宙の中にいるようなものだ。もし、かのビジネスが前年と変わらず維持されているのであれば、その事業は実質的には膨張している。売上を伸ばすともなれば、その努力は並大抵のものではない。

売上を維持し、あるいは拡大させて今日この日に残っている企業では、生き残る為の構造改革が進んでいる、と考えるほど私は楽天的ではない。誰かがそのキャパシティを超えて、変わらぬ賃金の中で、最後に残った財産であるところの命を、燃焼させているのだ、と想像するよりない。

命を、そこに宿る健全な精神を、資本家を照らす神聖な炎に投げ入れたならば、ただ無気力でとりとめのない魂だけがススのように大聖堂の天井にこびりつくだろう。
その黒い影は、不親切な技術者やスーパーの店員の形に見えなくもない。



資本主義国の多くの人間が信じている歴史の一つに、ソビエト市場経済の欠如によって滅びた、という神話めいた話がある。

曰く、ソビエト・ロシアでは、いくら働いても収入が増えるわけではなかった、それによって、労働意欲の減退が発生し、生産性は地に落ち、ついには、ソビエトの崩壊につながった、と。

私は共産主義者でも歴史学者でもないので、この巷間によく知られた共産主義経済の末路と信憑性について語るつもりはない。
この非市場経済下だからこそ発生した(と言われている)「労働意欲と生産性の低下」が、まんま日本の労働者にも起こっている、という奇妙な符合を、ここで指摘するに留めたいと思っている。


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