megamouthの葬列

長い旅路の終わり

ダブリンのジョイス、蜂蜜と美味しんぼ

始めに断っておくが、この話にオチはないし、特に教訓めいた結論もない。

最近の痛ましいニュースと共に、


というツイートを見て、ふと思い出した事があったので、書いておこうと思っただけである。


多分、2001年だったと思うが、後に中退することになる大学に所属していた私が、授業にほとんど興味を失っていて、大学に行く事自体が苦痛であったのだが、それでも漠然と、単位をとっておかねばならない、という強迫観念を持っていた頃だった。

私は2回生の頃から取りこぼしていた英語の単位を取る必要があった。
履修登録できた授業は月曜の1限目であった。普通に考えて出席できる気はしなかったが、日曜日をほとんど徹夜でPCをいじることに費やしていた私は、そのまま起きていれば大学に行けるのではないか、と考えた。

大学まで電車で1時間半。その間、余計なことを考えないように、あるいは寝てしまわないように、私は行きがけのコンピニで月曜日発売の週刊誌を探した。
ジャンプでも良かったのだが、なんとなく大学生っぽく週刊ビッグコミックスピリッツを買うことにした。

そうして、私は電車の中でスピリッツの漫画を読み、眠い目で1限目の英語の授業を受けるという生活をやってみることになったわけだ。

誰かが「漫画週刊誌というのは、生活に組み込まれていたから、あれ程売れていたのだ」と言ったのをなるほど、と思ったことがあるが、まさにそういう日々だった。
私はスピリッツに連載している漫画のどれにも大した興味を抱かなかったが、それを読むことで、少なくとも取り返しのつかない失敗をしでかした場所に向かう、という惨めさと不安を紛らわすことはできたように思う。


そうして辿り着いた英語の授業は、ジョイスの「ダブリン市民(Dubliners)」を原書で読むという内容だった。
既読の方ならわかると思うのだが、「ダブリン市民」はわりと強烈な本である。

当時の暗く、希望の見えない都市ダブリンと、そこに住む貧民と性的倒錯者、ペテン師たちの物語があまりにも赤裸々に書かれており、当時のアイルランドで発禁になったほどであった。

さて、英語の担当教授は初老の上品な男性だったが、おそらくジョイスの研究者か何かであったのだろうか、あまり質疑もなく、順番に生徒に和訳をさせるとそれを淡々と訂正するという流れで授業は進んだ。
ジョイスの英語は、スラングがかなり入り混じっていて、普通の英和辞典で読み解くことが難しい作品が多かった。なので、大半の真面目な生徒にとっては実用性に欠ける、つまらない授業になってしまっていた。
しかし、年下の学生に混じって授業に参加していた私は、ジョイスの描く陰鬱としたダブリンの空気と自分の心情が妙に一致してしまい、ジョイスの文章に夢中になってしまった。

のどかに少年たちと話していたかと思うと、突然とんでもない性癖を話しはじめる老紳士。
貧民街の少年が向かった空虚な祭りの様子。
その頃の私にはそれらの描写の一つ一つが妙に心地よいのだった。

私はおそらく、大学生活の中でも最も積極的に授業に参加した。
テストにも出ないような当時のダブリンの情勢について饒舌に語る教授の言葉をメモし、原書を読み込んでいった。


さて、授業が終わると、私は早々と部室に逃げ込んだ。2限目以降も授業はあった筈だが、まるで記憶にないので、おそらく行かなかったのではないかと思う。

そんな時、スピリッツに連載中の漫画「美味しんぼ」に離乳食の回が掲載された。

美味しんぼの主人公である山岡士郎の赤ん坊に、卵と蜂蜜で作った離乳食を与えるというような話であったように思う。

次の週、スピリッツの美味しんぼの巻末にお詫び記事が掲載された。
ボツリヌス菌が含まれているので、蜂蜜は赤ん坊に禁忌である、という指摘があったという内容だった。
原作者の雁屋哲はそれでも「自分の頃は蜂蜜と卵を与えるのは常識だった」とか言い訳をしているのが、なんとも雁屋哲らしい負け惜しみに思えてなかなか香ばしい内容だったように覚えている。

サークルの後輩に、美味しんぼのエピソードを言うとそれが収録されているコミックの巻数を即答できる、という男がいたので、私は「これ多分コミック未収録になると思うよ」と言って、蜂蜜回のスピリッツをあげた。


そういう話があったりしながら、1セメスターが過ぎて、英語の試験となった。
私は原書の読解を勝手に進めて、ついでに和訳本を手に入れて全部読んでいたので、試験はさほど難しくなかった。
最後に教授が「今年から授業のアンケートを取ることになったから」と迷惑そうな顔でアンケート用紙を配った。

私は、授業に最高評価をつけて、自由記入欄に、ジョイスの魅力を教えてくれた授業内容に感謝する内容を綴った。

そのせいなのか知らないが、珍しく私はその授業で「優」の評価を貰った。

それ以降、大学の授業には出ていない。

ただ、私が大学から得た数少ない物の一つを、毎週のスピリッツとあの無愛想な初老の教授が与えてくれたのは事実だったように思う。あと、蜂蜜を乳児に与えてはいけないことも。



以上が、この短い文章の全てである。
予告通り、特に何もなかった事についてはお詫びしない。それではまた。どこかで。

ダブリナーズ (新潮文庫)

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