megamouthの葬列

長い旅路の終わり

ブルー・ルームにようこそ

1

俺はもう何のゲームにも勝てないし、何の学校も卒業できないし、何の仕事も満足に終えることができない、ということがわかったのは、深夜残業の連続で脳が焼き尽くされて、大量のSSRIを噛み砕いた後だった。

生憎、自分を憐れんでクヨクヨするような性分ではない俺は、会社を辞めて、一日中アパートで寝転がってすごすことにした。君は天井の染みの数を数えたことがあるだろうか?31だ。29だと思っていた時期もあったが、今はそう確信している。

そうこうしているうちに、預金口座からは引き落とされるべき家賃もなくなって、管理会社からの督促も無視した結果、俺はアパートを追い出されることになった。

死んだ父親の代わりに保証人になっていた叔父は連絡を受けると、滞納している家賃や、家財その他の処分費をテキパキと支払って、明日から自分の職場に来い、とだけ言った。

叔父は地元の大学で研究者をしている。何の研究をしているかは知らなかった。
俺は「毎日通えるぐらいならちゃんと働いてるよ」と叔父に抗議したが、「研究室に寝泊まりすればいい」とにべもなく言い放たれて、返す言葉がなかった。


翌日、俺は歯ブラシやひげ剃りといった最小限の手回り品を持って叔父の研究室に行った。
まず驚いたのは、広いとは言えない研究室の一角に巨大な装置があることだった。部屋の大部分はその装置が占めていて、合間を縫うように、叔父が座る大きめのデスクや、乱雑に積まれた本と電子部品の山があった。

装置は四方を無愛想なグレイの鉄板で覆われており、ある面に中国の簡体字で装置の名前らしきものが書いてあった。
波とか量子とかそういう字が入っていた気がするが、読めなかった。ただ、その文字の一つ一つが青い明るい光を放っていて、乱雑な装置全体の投げやりな作りの中で、奇妙なこだわりに思えた。

叔父が言うには、装置にもたれかかるように置いてある1台の古いワークステーションだけが装置と接続されており、他の研究者が使えるように解放されているので、いつ誰が使ったかの記録を取ることと、たまに予約が入る時があるので、それを管理するのが俺の仕事ということだった。

仕事の内容についてはいい。だが、眠れそうな場所がどこにもない、というのはどういうことなのか。話が違う、と当然俺は抗議した。

「あいつの前で寝るといい。空冷式だから冬は暖かい」

と叔父は装置を指差した。寝袋は近くのガラクタの山の中に見つけた。ただ、問題があるとすれば、今は夏だ、ということだった。

2

仕事は大して忙しくはなかった。夏休み中の大学は閑散としていて、研究室の前の廊下を歩く者も少ないし、窓から見えるキャンパスの中庭でも人を見かけることはなく、夏の強い日差しで風景ごと朦朧としているように見えた。

時々、他の研究室から、生気の感じられない目をした院生や実験助手がやってきて、ワークステーションを操作していった。

俺はその度に、重厚な表紙のついた台帳を開いて、ボールペンで記録をとった。

紙で管理する必要はないし、実際のところ、一日の終わりに書いた内容を全てスプレッドシートにまとめていたのだが、俺はなんとなくこの方法が気に入っていた。

何をしているかわからない巨大な装置の前で、分厚い台帳に細かい文字を書き込んだり、予約の電話が入った時などに、受話器を肩にはさんでページをせわしなくめくったりするという行為は、何とも言えない風情があったのだ。

叔父は滅多にやって来なかった。何かの申請や事務仕事をする為だけに研究室に立ち寄って、論文は自宅で書いているようだった。
手持ち無沙汰な俺が、ワークステーションの利用状況を大まかに伝えても、生返事をするだけなので、それもやめてしまった。

夜になると、俺は研究室の鍵をかけて、2LDKのマンションに一人暮らしの叔父の家に立ち寄って、叔父の仕事の邪魔をしないように、シャワーと簡単な夕食を済ませた。そして、そのまま研究室に戻ると、装置の横で寝袋にくるまった。


中庭の照明が消えると、研究棟は暗闇に包まれる。
装置の簡体字が放つLEDの光が、この研究室だけを青い光で満たした。

俺はなんとなく、昔通ったクラブを思い出した。そのクラブは照明を青で統一していて、煙草の煙を吐き出すと、意志のない生き物のようにのたうつのだ。

"Blue Room"だな。
と、当時そこでよくかかっていた曲を俺は思い出した。
そしてThe Orbのダブ・サウンドが頭の中で流れるまま、眠った。

3

その女がやってきたのは、8月も終わりかけた頃だった。

院生や助手にしては見た目が若すぎたし、部屋に入ってくる所作にも落ち着きがなく、いかにもこの部屋とそこで行われている作業に慣れていない様子だった。

稀に、情報センターの端末が空いていないので、この研究室のワークステーションで就職活動のエントリーをしようと試みる学生がいたので、その類だと思った。

「これはネットにはつながってないよ」

と俺は両手は台帳に置いたまま、ワークステーションを顎で指して言った。

「いえ、その」

と女は、貸した部屋に傷がついていないか調べる大家のように丹念に研究室を見回していた。その視線はやがて、俺のところにやってきて、止まった。

短髪だが綺麗な髪だった。背は低いが顔も小さいので、それほどアンバランスな印象はしなかった。どちらかというと可愛らしい顔だったが、幼さを感じないのは、薄い青色の隈が、目を深い海に沈んでいるように暗くしているせいだろうか。

「ここにピアノのようなものはないでしょうか?」

「はあ?」

俺は思わずボールペンを手離した。

「どうしてそんな物を探してるんだ?」

「なぜだかわからないんですけど、少し前からどうしても弾きたくなって。ただ、私の寮の部屋にはありませんし、どこかの研究室ならあるかな、と思ったんです……」

全く困った事だ。と俺は思った。理系の研究室にピアノがある筈がない。ちょっと弾いてみたいなら楽器屋に行ってみれば済む話だ。だが、そうしないということは、「ちょっと」どころではなくピアノを弾きたいのかもしれない。

さらに困った事がある。この研究室には確かにピアノがあるのだ。
あの電子部品の山の中に、小型の電子ピアノが転がっているのを見た記憶があった。

俺はその事を彼女に伝えるべきか、迷った。彼女の視線を外して、無意味に台帳に記された自分の文字を追ってみるような事までした。

だが、再び顔を上げた時、彼女は困り顔でじっと俺を見つめていた。俺は負けた。負けることにした。

「玩具みたいのならあるよ、だけど、ちょっと、そのなんだ、『埋もれて』てね。音は出せない」

「そうなんですか!」

彼女の深く沈んだ瞳が、真夏の太陽が照らす水面に浮かび上がろうとしているように見えた。
ガラクタから電子ピアノを引っ張り出して、埃をはらって、
ほら、これだよ、持って帰っていいから気がすんだら返してくれよ。と言うべきだったかもしれない。

しかし、青い光が照らす夜の記憶と、彼女の瞳が俺を少しばかり狂わせていた。

「音を出せるようにしなきゃいけないから、明日もう一度来てくれないか?」

4

その夜、ガラクタの中から、比較的マシなスピーカーと、スタンドを見つけて、電子ピアノにつないだ。演奏する場所を確保するためにガラクタの山を整理するのが一苦労だった。

ひとまず、音が出るようになったので、試しに弾いてみると、安物の電子ピアノ特有の何の風情もない音色が鳴り響いた。
サティでも弾いてみようか、と思ったが、自然に動いた足がホールドペダルがないことに気づいてやめた。まったく無残なステージだった。

俺は灯りを消すと、寝袋にくるまった。
ピアノを置いたことで、俺の寝場所はさらに狭くなり、頭上にはX型のスタンドに載った安物の電子ピアノの背面があった。
何故かはわからないが、それは青い光の中で神々しい存在に見えた。


彼女は翌日の昼過ぎにやってきた。そして、セットアップされたピアノを見ると、わあと小さな歓声をあげた。

「ありがとうございます!」

「ホールドペダルもサスティンペダルもないから、まともな曲は弾けないと思うよ」

と俺は、台帳を見ながら冷たく言った。

「大丈夫です。弾いてみてもいいですか?」

「もちろん。ただ人が来たら、止めてもらうけど」

彼女の邪魔にならないように俺は台帳に目を落とした。

研究室に彼女の弾く旋律が鳴り響いた。普通のクラシックでもジャズでもなかった。バロック様式の曲のようだったが、俺の知っているどの曲でもなかった。と言っても俺が知っているバロックの作曲家はバッハしかいないし、その全てを知っているわけでもない。


30分ほど、演奏は続いた。その間、誰も研究室には来なかった。演奏を終えると、彼女はピアノの前ですうと深く息を吸ったように見えた。そして座ったままこちらを見て言った。

「また来てもいいですか?」

どうやら満足してくれたらしい。

「いいよ、人がいない時ならね」

と答えた。俺は彼女の演奏中、俺は台帳のページをめくって、ピアノの貸出記録を作っていた。腕時計を見て、日付と時刻を書き込む。

「何ていう曲を弾いていたの?」

と俺はわざと事務的な口調で尋ねた。

「即興なんです。ただ、昔の教会音楽で使われていたスケールで…スケールはわかります?」

短調とか長調とか?」

「そうです。さっきのはドリア旋法です。エフ・ドリアン」

俺は、台帳にF Dorianと書き込んだ。

5

それから彼女は定期的にやってきた。不思議とワークステーションの使用者とはかち合わなかった。静かな研究棟にピアノの音が響いているわけだから、苦情が来るのではないかと、俺は思ったが、それもなかった。

彼女はいつも即興の教会音楽を弾いた。彼女がどこでピアノを学んだのか、何故、バロックしか弾かないのか、それはわからなかった。ただ、俺は、彼女の弾いた旋法を記録していった。それはリディアンであったり、フリジアンであったりした。

雨の日だった。彼女はいつものように即興演奏を終えると、俺に言った。

「あなたは何故、ここにいるんですか?」

その日はいつもより優しく、感傷的な旋律であったように思った。

「どういう意味?」

「だってテクニシャン(実験助手)にも見えないし、音楽に詳しすぎますから」

俺は、台帳に目を落として言った。

「生きてれば、色々ある。というのは答えになるかな?」

彼女はピアノの前で言葉の意味についてしばらく考えているようだった。


「知られたくないことは誰にでもある、という意味なら。でも私もピアノを弾くを意味を教えてないからお互い様ですね。」

俺は大げさに肩をすくめて、台帳に戻った。

「私、すごく傷つくことがあったんです。」

彼女は少し大きな声で言った。

「ある人に、もう一生忘れられないぐらい、ひどいことをされて。」

下腹部のあたりに重い感触があった。俺はこの先を聞くべきなのだろうか、これ以上、何かを背負うべきなのか。
彼女がピアノの前で泣き出したとしても、俺には何もできないだろうと思った。
肩に手を置いてやることすらできないのだ。

俺は思い出した。俺には何もない。何もないから、ここにいるのだ。

「でも、生きれてば色々ある。ってことですよね。それも」

彼女は立ち上がった。

「ピアノありがとうございました」

俺は呆然と彼女を見た。少しだけ、目の周りが心持ち赤くなっている気がした。

「どういたしまして」

彼女は黙って頭を下げた。そして研究室のドアを開けて、出ていった。
もう二度と彼女は戻らないだろう、という気がした。
そして、もしそうだとしても、それは悪いことではない、と俺は思った。

「さようなら。またいつか何処かでね」

彼女が出ていった後、俺はそう呟いた。いつものように台帳に時刻を書き込む。そして旋法を聞くのを忘れていたことに気づいた。

6

夏休みが終わろうとしている頃、叔父が久しぶりに研究室にやって来た。
入ってきて一瞬ピアノを見て眉を潜めたが、何も言わなかった。


「叔父さん。いい加減教えて欲しいんですけどね」

俺は黙って事務机に座ってしまった叔父に向かって言った。

「あのバカでかい装置は何なんですか?それと俺がここにいる理由は?」

叔父は顔を上げて、馬鹿げた質問をした学生の為に日頃から用意されている表情を向けた。

「あの装置は、言うなればある特殊な物質の観測装置だ。その観測結果をずっと、24時間吐き出し続けとる。それだけの装置だ」

「それだけ?」

「それだけ」

「その観測結果って奴をあのワークステーションで記録して、それを院生がダウンロードしてるわけですか。それに何か意味があるんですか?」

「だからこう、という意味ではないだろうな。ただ観測結果、我々はストリームと呼んどるが、離散的であることがわかっている。」

「離散的?」

「つまり、何らかの符号化された情報だということだ」

「わからないな」

「符号ということは、何か意味がある『可能性』があるのだ。お前のようなバカに説明してやると、それは宇宙人や、4次元人からのメッセージかもしれんし、何かの物語かもしれん、音楽かもしれん。そこに何か意味がある『可能性』があるなら、それを観測するのが我々の仕事だ。」

「そこに何の意味もないことは考えないんですか?全く無意味な行為をしている可能性だってあるでしょう?」

「ところで、ここで、ピアノを弾いとる女学生がいるそうだが」

それには答えず叔父は言った。やはり知っていたようだ。

「ピアノを弾く女学生もあの装置もどちらも同じようなものだ。ずっとストリームを流し続けておる。お前は記録係だな。院生のワークステーションの使用回数も女学生の演奏回数も黙々と記録しておる。それに意味がないとは考えなかったか?
だが、それでいいのだ。ここはそういう部屋だ。私は何も言わんし、お前はこの部屋にふさわしいことをしたと思っておる」と、叔父はいつもの事務仕事に向き直った。「それからもう一つの質問、何故お前がここにいるのかだが」

俺は顔を上げた。

「知らん」

「はあ?」

「行く所もないし、やることもなさそうだから。連れてきた。それだけだ。ただ、お前も、まだまだストリームの発生源でいる気にはなったろう」

それが生きるということだ、とでも言いたいのだろうか、この偏屈親父は。と、俺は脱力した。

「どのみち死ぬ気はないですよ。どうせ死んだってつまらないだろうし」

叔父はその答えを聞いても、視線は書類から外さず右手を軽く上げた。



その夜、俺は荷物をまとめていた。

俺の頭をぶっ壊したのは上司でもないし、同僚でもない。誰も悪意を持って俺を傷つけようとはしなかった。
ただ、結果として俺は社会的に死んだ。何もなくなった。
それが「産業社会」という獏としたもののせいだと言うなら、ピアノを弾いていた彼女のように誰か特定の人間にひどく傷つけられるよりもマシなことなのかもしれない。

「いや、比較することでもないか」

単に俺たちは生きていただけだ。たまたまけっつまずいて、膝をすりむいて、そして、今も生きている。それで何か過不足があるだろうかとも思う。


俺は、来た時と同じぐらい軽い荷物を持って、研究室を出た。もうここには戻らないつもりだった。

廊下から見た夜の研究室には青い光が溢れていた。
ふと、思いついた。

俺はポケットからボールペンを取り出して、研究室のネームプレートに書き込んだ。

”Blue Roomにようこそ”


明日になれば誰か気づくだろう。




ORB/U.F.ORB

ORB/U.F.ORB