megamouthの葬列

長い旅路の終わり

就職氷河期世代について私が言える事

anond.hatelabo.jp

を読んだ。なかなか怨念と諦念が込められた、いいエントリだと思った。

さて、私も一応は氷河期「世代」の末期に属するわけだが、このエントリの筆者と違って真面目に生きる気が欠けていたし、大学を卒業していればそれなりに生計もたてられる立場だったのに、それらを全てドブに投げ捨てたうえに、今や抗うつ薬眠剤をアルコールで流し込んでるドクズなので、エントリ主とは一緒にして欲しくはない類の人間だと思われるが、少しこの「世代」の感覚を残しておきたいと思ったので書く。

果たされなかった約束

就職氷河期世代というのは「約束を果たしてもらえなかった世代」と言えるように思う。
ここで言う「約束」というのは、

世間的な規範に反しさえしなければ、毎日働くことが出来、妻と子供を作って、家庭を築ける程度の甲斐性を与えてもらえる

という高度成長期以降の若者に当然のごとく与えられ、そしてまた今の世代に与えられようとしている「約束」のことである。

前掲したエントリで「誇り」と表現されていたものが、これを指すかどうかは定かではないが、まあ、氷河期世代の恨み節の大半というのは、こういう「約束」を社会や不景気によって一方的に破られたところにあるように思うので、そう遠からず、といったところだと思う。


ここで見誤ってはならないことは、本質は人生の「悲惨さ」そのものにはない、ということだ。
氷河期世代に限らず、自分の人生を「悲惨」だと規定しようと思えば、これほど簡単なことはない。人生のうち、悲惨なことだけを語ればいいのだから。

なので、この話の本質は氷河期世代の「悲惨さ」にあるわけではなく、私達だけが社会の約束を失ったという、世代間の「不公平」である。

氷河期世代に関する議論について

さて、先のエントリのブコメに限らず、氷河期世代についての「議論」の大半は

氷河期世代の「不遇」が自己責任によるものか、または当時の社会情勢に起因するものか

という点と

・現状の「不遇」に誰が対処すべきか、または対処させるべきなのか

という二点の組み合わせで成立してしまっているように見える。

人生の中で起きる出来事というのは、例えそれを一個人に限定させても、単純な二元論で説明できるものではないので、こうした意見がどれほど出ようとも、当人が納得するような意見が出ることは有り得ないし、ましてや、我々の世代全てを納得させ得るような統一した結論が出ることは期待もできないだろう。

なので、氷河期世代の悲劇に対して「こうすべき(だった)」というような話にする事自体が、アラフォーになってしまったこの世代としては「今さら何だよ」と感じるのであるし、つまりは自分たちをネタに議論してくれ、と頼んだ覚えはない、としか言いようがなくなってしまう。

氷河期世代の行き着く所

では、氷河期世代はどうしてほしいのか。

エントリ主の言うように、政治的、社会的なサポートがこの世代に与えられてしかるべきだ、という意見には、賛同しなくもないが、現状のところ期待もできないし、それを求めるつもりも自分にはあまりない。

私は、世界を敵に回して大立ち回りを演じようとして舞台に出る前にすっ転んでしまった人間だし、このブログで天下国家について語るつもりもないからだ。

ただ、一つお勧めがあるとすれば、全てを「味わい」として受け入れることだと思う。
人生は味わいに満ちている。挫折も絶望は、苦いし不味いが味わいは豊富だ。

悲惨な人生。不公平な人生。その結果が、社会や失政にもたらされたとか、人生の選択に誤ったからだ、とか、そんなことはどうだっていいことだ。

想像してみればいい。大した苦労もなく大きな企業に入って、外の世界を知らず、守るべき物を作らされ、街にたむろする無職や非正規労働者に優越感を感じ、同時に彼らの得体の知れない薄ら暗い目つきに怯える日々。

そのどこに今、私達が持っている深い味わいがあるというのか、くだらない保身と惰性の塊ではないか。

私達には、こうした美学が残っている。例え、外野が、そんなものは美学でもなんでもない、ただの敗者(クズ)の論理だとがなりたてたところで、私達には一切の説得力も持たない。何故なら私達は彼らとは違うからだ。

社会が私達に与えそこなった物に比べれれば、果たされなかった約束に比べれば、私達だけはこういう考え方をしても許されるのではないか。

少なくとも私はそう考えている。