マッド・ワールド
先輩がデスクにやってくる。
今年四月に入ったばかりの僕のデスクには椅子が一つしかないので、ディスプレイを見るために、先輩は自然と僕の脇にしゃがまなければならない。
それはまるで、先輩が新米エンジニアである僕に跪いているように見える。
そうして、先輩は組み込んでほしいJavascriptの仕様を遠慮がちに僕に伝える。心なしかその表情は僕の顔色を伺っているようだった。
それでも僕は椅子に座ったままで愛想を言うでもなく、生返事を返しながら淡々と指示を頭に入れる。おそらく顔には何の表情も浮かんでいないだろう。
新人の態度としては、とても横柄に見えるだろうが、僕も最初からこんなふうだったわけではない。
同じ情報工学系の学部を卒業した仲間は皆、大きなベンダーや一般企業の内定を貰っていた。でも、僕は実際にプログラムを書くのが何よりも好きだったし、同期の中でもとりわけプログラミングが得意だった、という自覚があった。
僕は設計や営業や社内政治の苦労を嫌っていたし、大手の研究所に入れるほどいい学歴でもなかった。
なので、実際にプログラムが書ける、中小のWeb制作会社に入ったというわけだ。
最初の頃は順調そのものだった。内定をとることと同様に、仕事を始めるのに障害になるものは何一つなかった。皆自分に期待しているように思えたし、実際に社長を始めとして上司達のウケも良かった。
申し訳ないが、最初の1ヶ月でこの会社のエンジニアから教わることは何一つないと思った。
彼らといえば、JavascriptやWebプログラミングの新しい潮流についてまるで関心がなく、古いフレームワークを後生大事にメンテして、くだらない御用聞きに奔走して、毎日残業を繰り返している。
僕はそこに、最新のフレームワークやgitといったようなワークフローを導入して、誰よりもスマートに仕事をすることにした。
結果的に僕の仕事は早く、何週間もかかっていたトラブルシューティングも、僕にかかれば一日で終わるといった具合だった。
IT企業は特に中小のそれは過酷な労働条件だと聞いていたけれど、結局のところそんなものはやり方やスキルしだい、なのだと思った。
この会社の人材の入れ替わりは激しい。特に新人は、新卒も中途採用も三ヶ月もたずに辞めていくものが多かった。
僕の同期はやたら明るい男だったが、求められる仕事のレベルに追いついていけなくなって、やがて塞ぎ込むようになり、結局消えてしまった。
知らない間に隣の席が内線電話だけを残して空っぽになり、しばらくすると、誰かがそこに座る。半年もすると僕もそういう光景にすっかり慣れてしまったのだった。
何度目かの入れ替えの時、隣の席に中途採用の女性プログラマーが入ってきた。
6歳ほど年上という印象だろうか、美人とは言えなかったがなんだか気になる特徴的な顔立ちで、無口だった。挨拶もそこそこに、彼女は停滞しているプロジェクトの要員に組み込まれたようだった。
彼女のプログラムをちらっと見たことがあるが、他のプログラマと同様、凡庸で冗長な書き方であり、まるでプロジェクトを率いている中年のボンクラプログラマが書いたように思えた。僕は彼女が自分のスキルを上回っているわけではないことを知って、少し安心した。
ある時、僕は会議室に呼び出されて、そこそこ大きなプロジェクトを任されることになった。フロントエンドも含めて3人月というそのプロジェクトでは、特に見栄えが重視されていて、表側のWebページには派手な演出やSNSとの連携があった。しかもそれらを管理画面で全て制御しなければならない。
この会社には珍しく意欲的なプロジェクトだった。プログラマとしては僕だけが参加することになっていた。
僕はこれを好きにやっていい、ということだと解釈した。なので、導入するフレームワークの選定やシステムの設計には気合が入った。
僕がサンプルを書いていると、隣の女性プログラマーが、ちらっとそれを見て言った。
「それ、一人でやるの?」
特に関心があるような聞き方でもなかった。そうです。と僕は、振り返るでもなく言った。
「楽にしたほうがいいよ。自分が楽になるように作ったほうが。」
と彼女は忠告めいた事を言った。僕は自分の作業を続けている彼女の横顔を見たが、そこからは何の感情も読み取れなかった。
先輩のデザイナーからデザインが上がってきた。本来は派遣のコーダーがHTMLにするのするのだが、僕はそれを断った。
gulpも使えない下手なコーディングでプロジェクトを汚されたくない、と思ったからだった。
僕はHTML5の美しいマークアップを作りはじめた。管理画面も表側と同じく美しくコーディングして、CSSも凝った作りにした(もちろんSCSSを使った)
そうして忙しく仕事をしている間にも、関係のないプロジェクトで次々とトラブルが起こっていた。Android4で動かない、レスポンシブにならない。デザイナーがいじったHTMLでJavascriptが動かなくなった。etc
そうした仕事が、何故か僕に割り振られて、僕は少し苛立った。
自分のプロジェクトに加えて、他のプログラマの尻拭いまでしなければならない事に、腹が立ってきたのだ。
だけども、それらの仕事を最も早く終えられるのは僕だったので、皆が相談を持ってくるのは自然なことだ、と僕は自分を納得させた。
肝心の僕のプロジェクトは段々遅れてくるようになった。
元々のスケジュールが壮大な構想で一杯に詰まっているのに、余計な割り込み仕事をこなさなければならないのだ。帰宅時間が伸びていき、毎日終電近くまで僕は会社にいるようになった。
少しずつ僕から表情が失われていった。それでも相変わらず内線電話が鳴り、聞いたこともない仕事の相談が来る。
自分の口調がひどく攻撃的になっていくのがわかった。それでも相手は食い下がって、僕の前に仕事を積んでいくのだ。
殺伐とした空気を感じたのか、隣の女性が言った。
「背負いすぎだよ」
「何がですか?」
僕は、イライラしながら言った。
「まるでこの会社を背負ってるように見えるよ」
実際そうじゃないか。と僕は思った。僕がいなければ、納期の迫ったプロジェクトもまともに納品できない、ひどい現場なのに。
「君がそれをしないといけない義務なんてないんだよ」
彼女の目は少し憐れんでいるように見えた。
ある日、目覚めると出社時刻をとっくに過ぎていた。しまった、と少し思ったが、同時にこれだけやってるのだから、文句を言われる筋合いもないな、と僕は思った。僕は悠々と昼過ぎに出社した。皆がちらっと僕を見たが何も言われなかった。
僕のプロジェクトは完全にビハインドスケジュールになりつつあった。例の割り込みの影響の他にもバグがあったり、フレームワークに慣れていないせいで、当初の見込みより時間がかかっていた。
僕は割り込みの仕事を断り始めたが、それでも進捗を守りきれない日が続いた。
ある日、徹夜までして遅れを取り戻そうとしたが、それでも進捗遅れを少しマシに出来た程度だった。
「休めないの?」
椅子にもたれて居眠りしかけていた僕に、隣の彼女が言った。
「休めるわけないじゃないですか!」
思いがけず大きな声で僕は答えていた。
上司が奥から眉をひそめるようにこちらを見た。
「ま、私が決めることじゃないんだけどね」
と彼女は大声に怯むでもなく、上司のほうを見ながら呟いた。
納期まで1ヶ月を切っていた。システムは少し形になっていたが、冷静にスケジュールを考えることは、もうできなくなっていた。
そろそろテスト工程に入るが、バグは少ないはずだ。だから問題ない。まだやるべきことは沢山ある。Android4のことも考慮しなければならない。例外処理もある、まだまだ沢山あるのだ。
ある日、目覚めると夜になっていた。携帯には沢山着信があった。僕は慌てる、という感情を持てなくなったようだ。折り返して電話する気は起きなかった。
腹が減っていたので、ネットでピザを注文して、撮りためていたアニメを見ながら食べた。会社に行こうと思えば行けるが、なんだかどうでもいいような気がした。
僕がいなければ、あのプロジェクトは進まないだろう、だから何だというのだ。僕だけが悪いわけではない。どうでもいいことだ。
次の日、何食わぬ顔で出社すると、皆が安堵したような顔で僕を見た。だが何も言わなかった。
「おはよう」
と隣の彼女が言った。彼女のディスプレイに僕のプロジェクトが開かれていた。
「少し進めておいたから」
は?と僕は苛立ちながら彼女のコミットを見た。幾つかの処理が追加されていた。それはまるで僕が書いたような「文体」だった。
「わからないところはやらなかったけど」
と彼女は付け加えた。
僕は彼女のコードに感じた違和感がわかったような気がした。ようするに彼女は模倣するのだ。相手に合わせて、同じようなコードを書く。それが彼女の能力だった。
ボンクラが書いたコードならボンクラでもわかるように。僕が書いたコードなら僕が書くように。コードを書くのだ。
僕は唖然とした。
「今日から手伝うから、やってほしいところを言って」
僕はぼそぼそと、とっくに終わっていないといけない箇所を彼女に伝えた。何故かそれを言う時、涙が出そうになった。有難かったのかもしれないし、悔しかったのかもしれない。どちらなのかは自分でもよくわからなかった。
なんとなくこのプロジェクトは彼女が完成させるのだろう、という気がした。
そう考えると息こんでいた僕はひどく子供じみていたように思えた。自分に失望したのかもしれない。あるいはこれが挫折というものかもしれない。
ただ、気は楽になった。その日は、定時に帰って、久しぶりに日のあるうちに帰宅する人々に紛れることができた。随分久しぶりに日常を味わったように思えた。
しばらくしてプロジェクトは僕には不本意な形だが、完成した。ところどころ非凡なところも見えるが、最初に期待していたような見事なシステムではないように思えた。上司は僕と彼女を労ったが、少しも嬉しくはなかった。
これが自分の実力なのかもしれないな、僕は思った。
これからはどうするか。席に戻った僕は、考えた。独りよがりにならないように、一人で背負い込まないように。仕事を進めるべきなのだろう。
彼女を含めた周りの大人たちのように。
僕は少し安堵していた。そしてなぜだか、それはひどくつまらない生き方のようにも思えるのだった。