megamouthの葬列

長い旅路の終わり

スタープログラマの幻影

最近久々に「スタープログラマ」という言葉を聞いた。

そういえば、私の中にもかつてそういう存在がいたなあ、と思い出した。
あえて定義することもないが、スタープログラマとは、先進的なOSSプロダクツを実装し、ブログなどでプログラミングを堂々と論じ、できれば単著の一つも書いているような人たちといったところである。

話の都合上、具体的な名前を出すが、高林哲氏、higepon氏、新山祐介氏などが、私にとってのスタープログラマであったし、少し時代を戻すとεπιστημη氏であるとか、賛否両論だとは思うが、やねうらお氏などの名前が挙げられるかもしれない。

スタープログラマというのは、駆け出しのプログラマやプログラム学習者にとっての目標であり、先輩であり、嫉妬の対象でもある。

彼らの言葉は絶対で、疑う余地もないことであり、私はそのプログラミングに対する思想を無条件に受け入れたし、彼らが使っているエディタや、ツールを真似して使ってみたこともあった。
(それで思い出したのだが、私が呪われたようにEmacsに拘泥するのも彼らのうちの誰かの影響だったような気がする)

そしてなんとか彼らに追いつこうと、もがき、自分を取り巻く環境が彼らとあまりにも異なっていることに憤ったり、ついには自分自身の才が、彼らの足元にも及ばないことを悟って絶望したりする。


だが、今の私に、彼らのような存在はもういない。
今の世の中にスタープログラマがいないという意味ではない。単純に私がそういった存在に興味がなくなってしまったのだ。

おそらく今もどこかにiOSAndroidの神的な人がいたりするのかもしれないが、私は知らない。
「スタープログラマ」という言葉を聞いたのも、あるブログを書いているプログラマらしき人がフリーランスになったという記事を見たのがきっかけだったが、正直私は彼が何者であるか知らないのであった。

それは、私がプログラミングに興味をなくしてしまったということを意味するのかもしれない。
少なくとも誰かの思想を無条件に取り込むほどウブではなくなってしまったのは確かだ。


ふと気になって、私にとってのスタープログラマ達の現在を調べてみた。
高林哲氏、higepon氏は無事Googleに入社あそばされたようだし、やねうらお氏については、今の若い読者にとっては電王戦での活躍のほうが有名だろう。

そうした彼らの現状と、ポチポチとWordpressのテーマに手を入れて日銭を稼ぐ自分の境遇を比較すると、随分とまあ、ひどい有様だな、と思う反面、若き日にジリジリと身を焦がした、あの焦りを感じることも、もはやない。
大した言い訳も思いつかず、人生というものはそういうものだ、という感慨があるだけである。

今でもプログラミングの勉強はしている、最新技術のキャッチアップだってまだやっているのだ。

だが、それはスタープログラマを追うためではない。日銭を稼ぐためと、あとは単なる惰性である。

こうして走り続ける彼らを追う私の足取りは止まってしまった。

あの頃の自分を突き動かしていたであろう、醜い嫉妬の炎は年月と諦念の中に消えてしまったということだろう。

しかし、若き日の嫉妬で得たスピードは習慣となり、慣性となって、まだ自分をプログラマとしてこの世界に立たせている。

そして何よりあの頃より自分は自由になったという確信がある。
今の自分にとって、それは、かつてのスタープログラマ達からの充分な贈り物のように思う。


総論として、今の人に言っておきたいのは、若い時に嫉妬はしておくものだということだ。
私達の大部分が彼らに決して追いつけないとしても、ユニコーンの「デーゲーム」の歌詞にある「ジョー・ディマジオ*1のような若き日の幻影として心の中に残すことはできる。

スタープログラマ達から得られるものとして、それ以上のものはないように思うのだ。

*1:歌詞を引用するとJASRACが削除要請してくるらしいので、引用はしない