megamouthの葬列

長い旅路の終わり

『修正になんでも応えてくれるデザイナー』を憐れむ歌

いつまでも定点が残っているのも何なので、お茶受け程度の記事を書く。

キャンペーンの打ち方の「悪乗りっぷり」では定評のある日清のtwitter上のネタの一つだと思うが、こういうのがあった。

これに対して、私は率直にこういう感想を述べた。

カップヌードルさんのツイート: "修正になんでも応えてくれるデザイナーさんが上司からの「チーズ感が足りない」というダメ出しに全力で応えてくれた結果…ミルクシーフードヌードルの

具体的な指示をくれるし、最初に言ったことは否定しないし、いいクライアントじゃないか/暇だったので補足 http://www.megamouth.info/entry/2017/10/18/035041

2017/10/17 21:05

で、けっこうスターをもらってしまったわけだが、ふと、自分の知ってるデザイナーがこの企画と私のコメントを見たらどう思うだろうか、と考えると「そういうことじゃないんだよ」と言うのではないかと思った。
同時にブコメでも「笑えない」とか、「ひどいクライアントだ」、と私とは真逆の意見があった。

このように、様々に見解が別れる事は、広告代理店(+クライアント)、デザイナー、エンジニアそれぞれの職業規範――倫理と言い換えてもいいのだが、プロとして仕事するということはどういうことか、という意識の差がそのまま現れていて、おもしろいと思ったので、少しまとめてみる。

このネタの笑いどころ

普遍的にはネタとしてあまり成功しているとは言えないので、広告代理店の某が考えたこの企画(ネタ)を、何故、日清の広告担当が「おもしろい」と思い、同時に、「大半の人にはおもしろいと思ってもらえるだろう」と考えたのか、ということに少し説明が必要だろう。

私は、特にお笑いに詳しいわけではないが、この手のネタは、基本的に登場人物に「バカ」がいて、そのバカが、色んなものをぶち壊してしまうところを笑いにするという構成をとっている。
その視点で見ると、バカなのは、無茶苦茶な注文を出す「上司」であり、あくまでそれを忠実にこなすデザイナーをスラップスティックに巻き込んで、最終的に出来上がった「広告」のシュールさがオチ、ということになる。

おそらく広告業界にいる人間には、人物の髪の色を撮影後に変更したり、様々な要素が後付で追加されて、どんどんシュールになっていく様が「実際には有り得ない」光景であり、そこにおもしろみを感じるだろうし、もし業界外の一般人が見ても、その過程と成果物のシュールさに、なんだかバカバカしさを感じてくれるだろう、という見込みがあったと思われる。

美の番人としてのデザイナー

ところが少なくない本職のデザイナーがこの企画に不快感を感じているように思う。

前項で、このような荒唐無稽なリクエストが発生するような状況は「実際には有り得ない」と広告業界の人間は考えていると述べたが、実際の案件で、クライアントは似たようなリクエストをやらかしてしまっている事が多い。

いくらなんでも「巨大な電子頭脳を置く」なんていうリクエストを出したことはないぞ、と反論があるかもしれないが、そういうことではないのだ。問題は「デザイナーの美意識」上、絶対に受け入れられないリクエストやクレームを出してやしないか、ということだ。

具体的にどういうことか、このブログの読者に多いITエンジニアであれば、「セキュリティ的に重大な問題を抱えることになってもいいから、機能を追加しろ。クラックされた時の責任はそっちで。」というリクエストに応じるべきか、という命題として捉えれば、冗談じゃねーよ、と同じような気持ちになるのではないかと思う。

デザイナーもプロなのだから、リクエストに応えるのが仕事、とデザインとは関係のない世界にいる私達は考えてしまいがちなのだが、デザイナーとはクライアントと目標を共通し、目的を達成するプロでありつつも、あくまで「美の番人」であり、その培った美意識でもって一般の人間を対象に何かを訴求しなければならない責務を負っている。

デザイナーというのは職人でありながらアーティスト性もまた持っていないければならない職業なのだ。


またデザイナーにとっては成果物=結果が全てである。見た目の醜悪さが問題なのではなく、最終的な結果が、一貫した自分の美意識の元に行われていなければ、そのデザイナーはプロではないし、ただでさえあやふやなアーティスト性すらも完全に失ってしまうだろう。

そうした視点で見れば、この企画の最後の画像が――オチとして使われる為にあえて――最初のカンプにあった種類の「美」を無残に破壊されたような形で提示されている事はデザイナーとして直感的にいたたまれない気持ちになるであろうし、さらに言えば、そのあたりの事情に思いを馳せようともしない無知なクライアントが、この企画を見て、依頼主と請負という絶対的な上限関係を盾に、「巨大な電子頭脳を置く」はギャグとしても「普通サイズの象」ぐらいは追加してもらえて当然ではないか、と考えやしないか、と暗然とした気持ちにもなろうものだと思う。

偏在する美意識

『修正になんでも応えてくれるデザイナー』は哀れな存在である、ということを書いてきたが、一応、この話にもオチがある。

まるで工場のように似たようなHPデザインを仕上げてくるデザイナーを私は知っている。彼はクライアントに「もっと可愛らしくしてください」と言われて、二つ返事で既存のデザインにとってつけたように淡いピンクを「これでよろしゅうでっしゃろ」とばかりに塗り込んでくる。

彼はとにかく早く仕事をこなせばいいと思っているので、先程述べた美意識云々という話を私が言い出せば、きっと鼻で笑うであろう。


逆の例で言えば、ITエンジニアの中に過剰な美意識を持っているものがいる。対象はアーキテクチャであったり、UXであったり、アルゴリズムの速度であったり、様々だが、優秀なプログラマほど何らかの美意識を持っている傾向がある。

たまにそれがいきすぎて、(本人によれば)エレガントなアーキテクチャだが、まったく実用速度が出ないシステムを作ったり、斬新すぎるインターフェースを採用したり、処理速度が速いのはいいのだが、他のプログラマが全く理解できないソースを書いたりする。

このように、美意識というのは偏在していて、ないのも考えものだし、ありすぎるのも困ったものなのだ。


それ故に、クリエイターという枠でくくられる人々は、毎日その狭間でもがいている。自己の追求という点において、これほど巨大で直接的なテーマはないと言えるほどに。


だからこそ、シチュエーション・コメディの題材としても、それを簡単に踏みにじるようなポーズを取ることは、企画としては微妙なものだと思わないでもないのである。


ノンデザイナーズ・デザインブック [第4版]

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