みそねこを偲ぶ
思い出の中にしかいない人、それも面識があったわけではなく、
その「作品」を通じて知っているだけという人がいて、2年ほど前、私は彼の訃報を聞いた。
彼の名前は「みらゐ」。ゲームミュージックの作曲家で知られ、同人音楽やバンド活動でもその名を馳せた人だ。
ただ、私のよく知る彼の名前は「みそねこ」で、中学生だった私にとってのヒーローだった。
20年ほど前、MSXというパソコンを買ってもらった私がプログラマとしての一歩を刻んだ頃、
「みそねこ」はMSX・FANというパソコン雑誌の音楽投稿コーナー「FM音楽館」にいた。
かつて音楽はプログラムだった
その当時のコンピューター・ミュージックというものについて少し説明が必要だろう。
DAWはおろか、DTMソフトも一般的でなかった頃、コンピューターで「音楽」を作るということは、「プログラム」を組む、ということだった。
多分、何を言ってるのかわからないだろうから、一例をあげる。
10 play "L4CDEFEDCREFGAGFERCRCRCRCRL8CCDDEEFFL4EDC"
これをプログラムとして実行すると、MSXの内蔵シンセサイザーで「カエルの歌」が奏でられる。
勘のいい人なら"C"や"D"が音符の"ド"と"レ"に相当することがわかるだろう。
当時のパソコン雑誌の音楽投稿コーナーというのは、こういった「音楽を奏でるプログラム」を読者に送ってもらい、審査の結果、選ばれた曲を付録のフロッピーディスクに収録するという形をとっていた。
FM音楽館とみそねこ
MSX・FANの「FM音楽館」もそうした音楽投稿コーナーの一つだったのだが、他の雑誌と違っていたのは、ミュージシャンである横川理彦氏が選者として作品を審査していることだった。
ちなみにこの横川理彦という人。P-MODELと4Dという日本のニューウェーブの最重要バンドの二つに在籍していたこともあって、選考基準が尋常ではなかった。
まず、他の雑誌では無難に採用されるような既存のゲーム・ミュージックの完コピは、ほとんど通らない。代わりに中学生が遊び半分にデタラメに打ち込んだような楽曲でも、雰囲気や光るものがあれば採用される。
結果として、「FM音楽館」は素人が作った実験音楽のコーナーのようになってしまっており、「前衛音楽館」と呼んだほうがいいような有様だった。
私はそういうヘンテコな音楽が好きだったのだが、中高生を中心とした当時の読者としては、曲の独創性や個性など、どうでもいいので、もうちょっと聴きやすい曲を載せてくれないかな、というのが本音であったろう。
そうしたあまりにもフリーダムな「FM音楽館」に"BEAT-R"という楽曲が掲載された。
かっこいい曲だった。
まるで、プロが作ったゲーム・ミュージックみたいにソツがなく、近未来都市を疾走する光景を心に浮かばせる、市販ゲームで使われていても全く違和感がないだろう、そういう曲だった。
そして、それは同時に横川氏が選ぶのが納得できるぐらいに、「変」だった。
小節ごとにアクセントの変わるリズム、跳ねまわるベース、予想もつかない展開。
「変だけどかっこいい」
横川氏が作ってきたFM音楽館のコンセプトと、あくまで普通にかっこいい曲が聞きたい読者の思いが、なんだかよくわからない所で結実していた。
私は感動して、何度も"BEAT-R"を聴き返した。そしてその作曲者「みそねこ」がほとんど自分と年の変わらぬ高校生であることに興奮した。
真似できないかプログラムソースを覗いてみたが、わかったことは異様なぐらい作りこまれているということだけだった。
それから、「FM音楽館」にはかなりの高頻度で「みそねこ」の新曲が掲載されるようになった。
どの曲も「変」で、「かっこよく」、妥協のない音で埋め尽くされていた。
それらが譜面入力も鍵盤でのレコーディングもできない、他でもない「プログラム」で組まれているのだ。
それはまるで魔法で、人間業ではないように思えたし、粗末なスピーカーから彼の曲を流すと、それを奏でるMSXという時代遅れのコンピューターが、自分だけの、特別なものになったようにも感じるのだった。
sEAcAT
しかし時代は巡っていく。いつの間にか、コンピューターミュージックは前時代的なプログラムではなく、DTMソフトと専用シンセサイザで奏でるものに変わっていた。
MSXの最終機種の生産も終了し、広告掲載が見込めなくなったMSX・FANも休刊が決定した。
「みそねこ」と私がいた「FM音楽館」という幸せなコミュニティは雑誌の終焉と共にその役割を終えようとしていた。
1995年の夏、MSX・FANの最終号が届いた。
"sEAcAT"
と題された、最後のみそねこの曲を聴くために私は、急いで付録ディスクを挿入する。
曲は感傷を誘うシンセパッドから始まる。
「白鳥の湖」をモチーフとしたメロディが甘くリフレインする。
そして唐突に、それが途切れる。
代わりに全てをぶち壊すようなミニマル風のフレーズがやってきて、そこに、今度は「白鳥の湖」のモチーフが乱暴に重なる。
「終わりは寂しい。でもここで何もかもが終わるわけじゃないだろ?」
コミュニティの終わり、誰もが感傷的になる中、その曲はそう言っているように思えた。
なるほど「みそねこ」らしい。「変」な曲だな、私は思って、一人で笑った。
みらゐ
私と「みそねこ」はそれっきりだ。
あれほどの才能が野に埋もれるはずはない。そう確信してはいた。
MSX・FANがなくなって数年がたち、ネットを始めた頃、有名ゲーム・メーカーのコンポーザーとして、また「みらゐ」という名で、同人音楽やバンドで活躍していることを知った。
楽曲もいくつか聴いてみた。昔のみそねこに負けないぐらい変てこで、それでいてポップないい曲だった。2chや個人サイトに、彼の楽曲を熱烈に愛する人たちの書き込みがいくつもあった。
かつて私を魅了した彼の音楽とその理力は、変わらず沢山の人に向けられているのだ。
そして私は、彼がその才能を発揮するには、あまりにも短すぎる生涯を終えた事を知った。
ある冬の夜、私はエミュレーターの設定に四苦八苦しながら、押入れから大事にとっておいたフロッピーディスクを取り出して、「みそねこ」時代の楽曲を再生する。
FM音源の甲高いファンファーレがスピーカーから昔よりクリアな音で鳴り響いて、
私はすぐに15歳の少年に戻ってしまう。コンピューターとその向こうにある未来に思いを馳せていた、まだ何者にもなっていない少年の頃を思い出す。
きっと、「みらゐ」の楽曲を愛した人たちも、こうして彼の曲を聴く度、彼がBGMを奏でたゲームの場面や、電波ソングで仲間と大笑いした時を思い出すのだろう。私がそうであるように。
彼の曲はどの人の心にも、音楽を媒介にして「その時」を刻みつけたに違いない。
そして、もしその記憶が、長い時を経ても、全く色褪せることがなかったとしたら、それこそが音楽の最高の力なのだ。
みそねこ、みらゐ氏とはそういう事ができた人で、つまりは偉大な音楽家であった。私はそう思っている。
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