megamouthの葬列

長い旅路の終わり

鬱病で貧乏でキモいおっさんエンジニア

本当に書きたいものがあるし、書いているのだが、いつまでたっても納得がいかず、掲載出来ないので、今回も一発書きである。
毎度、言い訳から始まって申し訳ないと思うのだが、たまには愚痴を吐かせて欲しい。ダメだと言われても書くのだけど。

私はこのブログで、技術論、テクノロジーの話題をできるだけ避けている。そういうブログは掃いて捨てるほどあるし、本当に有益なものが読みたければ、もっとマシな選択肢があるからだ。

だが、この態度は同時に私が「どの程度」のエンジニアなのか、という情報を隠すことになってしまっている。しかし、それは本意ではない。

この際だから正直に言っておこう。私の実力は、Linus Torvaldsがゴッドハンドだとすれば、イシドロぐらいだ(弱くね?)深津貴之が範馬勇次郎だとすれば、鎬昴昇ぐらいである(弱くね?)伊藤直也がCTOだとすれば、インフラ部隊の万年平社員ぐらいである(比喩になっているのか?)

まあそんなわけであるが、経験だけは無駄にあるので、サーバートラブルが発生しても平均30分で原因を特定するぐらいのことはできるし、業界3年目ぐらいの小僧が書いたプログラムのバグぐらいは簡単に直せる。

これを聞いて羨ましく思う読者がいるかもしれないが、私は、この業界に20年近くいるのだ。
このぐらい出来て当たり前だし、逆に言えば、20年もいて、その程度なら辞めたほうがいいよ、というレベルである。

才能的には、本来、講師にでもなって、若手の初等教育でも担うべきなのかもしれない。正直、身の振り方としてはそれぐらいしか、もう思いつかない。

*

だが、私にはそれができない根本的な問題があって、それは私が、貧乏でキモいおっさんだけではなく、鬱病でもあるということだ。

鬱病について、とやかく書く気はない。パキシルが切れた時に頭に走るあの独特の感覚とか、自殺念慮の辛さとか、そういうのも書こうと思えばいくらでも書けるが、他のブログに山ほど書いてあるので、書かない。

ここで書いておきたい「問題」というのは、鬱病というのが「勤勉さ」というものを根こそぎ奪い取ってしまう病気だということだ。

読者諸氏は、毎日定時に出社しているだろうか?そうでもないです、とかうちはフレックスです、といっても、熱中すれば一日9時間ぐらいプログラムを書くぐらいは訳はないだろう。実際、以前の私がそうだったからだ。

だが、今は違う。朝起きた瞬間に、その日の行動が決まってしまう。
例えその日が納期であろうと、絶対にやらなくてはならない仕事が残っていようと、目覚めた時に、体が起き上がらなければ、もうそれは無理なことなのだ。

こう割り切るまではしばらく時間が必要だった。先日、~/orgフォルダを眺めていたら、中々おもしろい文章があったので、丸々載せる。
読みにくい文章なので、飛ばし飛ばし読むのがコツである。

狂人と傘

意欲の減退という言葉が(患者個人の内面の問題ではなく)単なる外形的な観察によって定義づけられている用語にすぎない、という事実に気づくには、しばらく時間が必要だった。

私は相変わらず焦りすら感じない怠惰と夢うつつの中にいた。

様々な抗鬱剤が処方されたが、経過観察ですら無駄だと感じるような物を除くと最終的なカクテルはパキシルリフレックス、ノーマルンとなった。

これらの薬剤が選定された理由も(効能といえる基準ですらなく)単純に「眠くなる」といった私の自己申告によるものだったように思う。
確かに、このカクテルで夜はグッスリと眠れるのだから、効果はある、という判断は、まさに理系の頂点にある医師らしい演繹の結果には違いなかった。

とはいえ、不安で眠れないことなど生涯においてただ一度も経験していない私にとっては、その論理は主治医本人の願望を補強しているだけに思われた。

普通なら主治医が信じられない、とでも思うところなのかもしれない。
しかし、私は彼のこの愚直なまでの薬剤信仰をむしろ微笑ましく思っていたので、それを改めさせる気など毛頭なかった。

他に何がある?鍼灸にでも通って、やはり毎日の体調の変化を事細かに説明し、ああそれはここに鍼を打ったせいですよ。では今日はここを。
患者は笑顔でうなづき、やはり西洋医学はいけません。根治治療は東洋に限りますと微笑み合えばいいというのか。

信仰する神は一つで十分だ。ならばもっとも通りで叫ばれている名を一緒になって叫べばいい。

そうあれかし。


いつしか、私と主治医との間には不思議な共犯関係のようなものができあがりつつあった。患者と医師の信頼関係というものがこれと同一なのかは確信がないが。

相変わらず、私が働けないという事実に目をつむれば、これはある意味平和な時間であるとも言えるのだ。

*

多分これ、10年近く前の文章だと思うのだが、この頃に比べると素直になったなあ、と感じる。
読者は私の文章修行の成果に少しは感謝すべきだが、まあそれはどうでもいい。

話を戻す。

「勤勉さ」とは、社会がその構成員に求める、最低限の、そして必須の素養である。

どれだけ会社の利益に貢献していなかろうと、一度正社員になった以上、皆勤賞の社員を解雇することはできない。(やるところはやるだろうが、それも訴訟リスクなど多大なコストを支払わなければならない)

また、毎日、何かをする、できる、ということはそれだけで大変な価値がある。

それが出来ていない私が、postfixの設定を熟知していたり、最近のフレームワークアーキテクチャをまがりなりにも理解できているのだから、勤勉さを身に着けている君たちにおいては、何をか言わんや、というところだ。

*

勤勉さを失って、立ち止まっている私に見えているものがある。

君たちは「勤勉」という事は、ただ、一歩一歩、進んでいるかのように考えているのかもしれない。

そうではない。君たちは少しずつ「加速」しているのだ。

例えそれが、数m/日の加速度であろうが、10年後には、いちいち歩みを止めなければならない私と彼我の差を生んでいることだろう。

それを自覚してほしい。

そして、くれぐれも、それを失わないよう、何を犠牲にしてでも自身の健康は守るべきだ。

それができれば、私のようにはてなProの更新料が払えないという事態に陥ることはないのである。(オチ

今日書きたいことはそれくらいです(パクリ