megamouthの葬列

長い旅路の終わり

「作る」こと「語る」こと、その呪い

昔の恋人に名を呼ばれたような気がして、目が覚めた。

彼女は時々夢の中に現れる。
そうした時はとても暖かく、いい夢だったと感じる。
おそらくは彼女は既に自分と統合されて内なる神となっていて、私はそれを「アニマ」という聞きかじった言葉で呼んでいるけれど、心理学上の定義はともかくとして、彼女の出現は私の精神に、ある歯止めをかけているようには感じている。

こういう夜にしか書けないことがあるような気がしたので、特に何も考えずに書く。

語ること

最近プログラミングや自分のプログラマ人生の周辺について「語る」ことが多くなった。

そういえば音楽を辞めかけていた時も、私はよく音楽を「語って」いた。

誰かに聞いたのか、自分で考えたのかを忘れたが「洞察は絶望から生まれる」という言葉があって、つまりはそういうことだと思っている。


物を作ったことがない大部分の人間は知らないことだが、何かを作るということは自分に呪いをかけるようなものだ。

集団の中で、「何か」が必要になった時、誰かがそれを買ってきたり、どこから取ってきたりするのではなく「作る」と言ったなら、彼はその呪いにかかっている。
それも大抵の場合、彼自身が自ら望んで呪いにかかったのだ。

「作る」ことを諦めるのは、たやすいと感じるかもしれない。音楽なら、ギターなりアンプなりを捨てて、一生そのことを考えなければ良いのだ。

だが、「作る」ということは完全に自発的な衝動ではない。誰かの「必要」があれば、どうしてもその隙間に自分の作った物を詰め込みたくなる。
ギターやアンプがないのなら、どこからでも取ってきて、「作る」という衝動が心を突き動かしてしまう。
偉そうに言えば、それがクリエイターというもので、その呪いはおそらく一生続く。

一方、「作る」ことが出来なくなることもある。自分が生きるために、家族を養うために、物理的に作る時間が奪われたなら、もはや「作る」という選択肢は彼には残っていない。

そんな時に、人は「語る」のだ。自分が作っていたものや、自分に影響を与えたもの、自分の人生そのものを饒舌に語るようになる。

呪いはそういう「言葉」になって最後の火を燃やす。

もはや語るべき言葉もなくなった時、あるいは本当の意味で呪いは解けるのかもしれない。

私はまだそこに至ってはいない。そして、おそらくその時は、私の全ては意味を失うのだろうという予感がある。

語らないこと

確か21世紀になった頃だと思うが、私の音楽のキャリアの最後、組んでいたバンドが終わってしまうことが決定的になった頃、
大晦日に私と最後に残ったメンバーのTが、一人暮らしの私の家で炬燵に入って、ぼうっとテレビを見ていた。

まだ、大晦日に音楽のヒットチャートを流す時代だった。私たちは次々と流れる去年のヒット曲を聴き、それについて何かしら意見を言ったり、知っている知識を披露しあっていた。ひどい曲が流れた時は、どちらからともなくTVをミュート(消音)した。

ふと沈黙の時間があった。こんなことをしていてどうなるのか、という空しさを覚えたのかもしれない。

私はバンドの話し合いがあった時、メンバーに向かって「君らを信用してはいない」と言ったことを思い出した。どういう文脈でそう言ったのかは覚えていない。だが、まともな曲ができないのは自分のせいではない、という意識があったのは事実だった。

メンバーの一人がそれに激昂して「ならこのまま続ける必要もないな」と怒鳴った。私はその剣幕に驚いて言い訳めいたことを呟いたが、彼はそれに納得することはなかった。

私はあの時に何を語ったのだろうか、と思い返す。多分、何も意味のあることは言っていなかった。だから、問題はそこではないのだろう。
ただ、私の言葉には「形式」がなかった。簡単に言えば「言い方が悪かった」だけだ。

ふと、ミュートされたTVに向かって缶チューハイを飲んでいるTを見た。
彼は私の言葉に怒るでもなく、それでメンバーが去っていっても非難することもなかった。ただ「冷静じゃなかったな」と、後に言った。



その頃に二人だけで作った未完成の曲が残っている。Tのボーカルはピッチが外れたままで、Tのギターと私のシンセとドラムマシンループだけのシンプルな曲だが、確かにあの時間を切り取っているように思える。
それは私たちがまだ、その時に語るべき言葉を持っていなかった証のように思えて、その曲を聴く度、私は少し嬉しくなるのだった。

語れないこと

恋人が出て行ってしまった夜、ベットに寝ていた私は、そこから見えるキッチンに向かう電球色の廊下を見ている。

小さなコンポからサニーデイサービスの曲が流れていて、私は、この素晴らしい世界から永遠に追放されたのだと、悟った。

私は立ち上がり、コンポのスイッチを切ると、深夜の街に出て、歩き始めた。

大学を辞め、職を得た。「作る」ことは止めなかったのは、ちょっとした意地だったのかもしれない。


ある日、職場から帰った私はネットラジオを聴いていた。何かの曲が私の心を突き動かした。

何故かその時、気づいたのだった。心の中で、自分が、あの素晴らしい世界に帰る道がまだどこかに残されていると考えていたことに。

私は零細企業のしがないプログラマだった。そんな道はとっくの昔になくなってしまっているのだ。

私は立ち上がり、ヘッドフォンをつけたまま目を閉じてクルクルと回った。涙があふれ出るのも構わなかった。


これらの事については、私は未だに語るべき言葉を持たない。何かの幸運でこれらが語れるようになるか、もしくは何かほかのもので、この記憶を表現する「形式」を発見するのかもしれない。

記憶と違って、感情は維持できない。だから私たちは語る。語れないのなら適した「形式」を見つけていないのだ。

呪いは一生続く。

「形式」を見つけられる程度に、それが長いことを私は願っている。