megamouthの葬列

長い旅路の終わり

大学を中退した男の末路、あるいは瓦礫を歩むということ

幼い頃、私は世界はいずれ滅ぶものだと思っていた。ある日、兄と朝食を食べていた時に、核戦争か何かで文明が滅び去ってしまったら、私は政治家になって瓦礫の世界を復興するのだ、と言った。

もし世界が滅ばなかったらどうするのか?と兄はバカにしたように私に尋ね、私は少し困惑したが、その時は好きなように生きていくよ。と答えた。


高校生になると、少なくとも世界は1999年に滅ぶことはないらしいということがわかってきたので、私は、趣味の音楽と体育会系の部活に打ち込んでいた。音楽もスポーツも毎日練習しているわりにちっとも上手くならなかったが、今の事だけを考えれば良い、おおよそ平穏な日々であった。それでも私は、いつかこの平穏は崩壊するだろうという不安を心の底に残していたように思う。

高3になると同級生がほとんど部活に来なくなった。受験勉強のためらしい。私は寂しくなったが、同時に今さら手のひらを返すように将来を考えるようになった同級生を軽蔑もした。当時の私の成績は学年で中の下ぐらいだったので、彼らが必死に打ち込む受験勉強とやらがどんなものか、少し気になって、毎朝4時に起きると、登校時間まで勉強するようにした。

結果、成績は嘘のように上がった。今まで話しかけても来なかった教師が、口々に私を褒めてきた。音楽や部活と較べて、向上のためのノウハウも教材も豊富な受験勉強など、やればやるほど結果が出る。こんな簡単なものはない。と私は思った。同時にこの程度のことに将来をかけている他の人間がますますバカに見えてしょうがなかった。

大学は上がった成績で入れる国立大の文系に合格した。特にその大学や学部に入りたいわけではなかった。単に家からある程度近くて一番有名な大学だったからだった。その学年からは5人ほどしか入れない大学だったので、同級生たちは皆羨ましがったが、私は自分が立派だとは到底思えなかった。



大学はつまらない場所だった。やる気のない教授の講義、楽に単位を取りたいだけの学生が教室の後方でおしゃべりして時間を潰している。私はその中間の席に座って真面目にノートを取っていた。全く興味の持てない講義の時は、内容はほとんど頭に残らなかったが、テストはノートの内容を暗記していれば大体解けてしまうのだ。

そうやって普通に単位をとって、普通に友達を作って、普通に恋人もできた。今のことだけを考えれば良い、平穏な日々だ。私は世界について考えるのに疲れて、もうこのまま流されればそれでいいのだ、と思いはじめていた。そして同時にそれが、自分が最も嫌悪している人生だということも自覚していた。


ある日、私は、校内の広場に座って、道行く人々を何気なく見ていた。その時、当然私は気づいた。この大勢の人の誰一人として、人生と向き合ってすらいないのではないか、と。

私は言い知れぬ恐怖を感じた。まるで彼ら全員が宇宙人のように見えた。私は講義をすっぽかして、家に逃げ帰った。


その日以来、私は大学に行かなくなった。恋人の家に転がりこんで、毎日そこから見える近くの中学校のグラウンドを虚ろな目で見下ろしていた。恋人はヒモのようになってしまった私に困惑して、やがて愛想をつかした。



瓦礫の道を歩いているほうが、俺には合っているみたいなんだ。とみっともない詩的な表現で、私は恋人に別れを告げた。恋人は悲しそうな顔をして、そんな事ができる人間はいない。と言った。



単位をとれないので、私は大学を辞めた。せいせいもしたが、同時に瓦礫の道を歩むことに不安も感じていた。身一つで大学をほっぽりだした私に行くアテはないのだ。確かに恋人の言うとおりなのかもしれなかった。


私はなんとなく、小さなWeb制作会社に潜り込んだ。中退とはいえ、そこそこ有名な大学の名前を履歴書に書けたせいなのか、高卒の私はバカにされることもなく、大事に扱われた。私もその扱いに応えられるように、賢明に勉強した。バカバカしいことに、この業界でも少し真面目に勉強すれば、簡単にプロとして食っていけることを私は知った。

最初の会社で私はあらゆることを叩き込まれた。メールの書き方から、ネットワーク、プログラミング、データベース、トラブルシュートの仕方、案件の回し方、プロジェクトマネジメント、営業に近いことまでやった。

いつの間にか、私はWebに関することなら何でもできるようになっていた。私は色々な人に出会うことが出来た。語尾に「ござる」を付ける天才プログラマ、寡黙だが私には到底理解できないアルゴリズムを実装できる青年。得体の知れない風体だが、何故か大手の仕事をもってくるオジさん。当時のWeb業界にはアウトローな才人がポツポツといて、崩壊した世界にあるこの瓦礫の人生にもおもしろいことは沢山ある、と私は思った。


ある冬の日、私は会社に行けなくなった。理由は今でもわからない。行こうとしても体が動かないのだ。私は精神科に通って薬を飲み続けた。会社は半年以上待ってくれたが、これ以上迷惑をかけるのも申し訳ないので辞職した。不思議と感慨はあまりなかった。


結局、私は、自宅の窓から人のいない公園を見下ろす生活に戻った。瓦礫を歩むということは、こうして時々、世界の外に放り出されるということなのかもしれなかった。

それから再就職したりボツボツとフリーの仕事を貰ったり、酒を飲んだりして、私は今でも生きている。人によっては、最初に世界を放り出された時に命を断ったりもするだろうし、今まさに世界から放り出されようとしている人が、こういう話を読めばやっぱり将来を悲観してしまうかもしれない。なので、一つだけ言い訳じみたことを書こうと思う。


私は、レールに載ったあの平穏な世界を放り出された。そこそこの給料と、社会的な地位と、妻と子供がいる家庭はもはや望むべくもなく、代わりに下品で、何の保証もなく、殺伐とした瓦礫の中に放り出されたままだ。

だが、それでも私は自由だ。世界に見放されようと、自分の足で立って、この世界を睥睨することができる。気が向けば瓦礫をかきわけて、どこにでも歩いていけるのだ。

それが重要なことだ、とまでは言う気はない。こんな想いはしないにこしたことはない。ただ、もし私が昔の恋人に近況を報告する機会があるのなら、こう言うだろう。

瓦礫に生きるのもそこそこ楽しんだよ。きっと君にはわからないだろうけど。