megamouthの葬列

長い旅路の終わり

罵倒おじさんの喪失

今朝からずっとテレビが台風の接近を繰り返し警告しているのを知っていたので、駅舎のアナウンスで数十回も「申し訳ありません」と謝られなくとも、この電車で目的地に行き着くことができないことはよく理解できた。

私は、道の半ばにして止まってしまった電車を後にして、ひとまず駅の外に出るために改札に向かった。人混みで溢れる階段を注意深く下りながら、この先にある光景に私は、ある確信を持っていた。

それは、無数のサラリーマンが振替輸送の案内を求めるために列をなしているであろうこと、と、みすぼらしい格好をした「罵倒おじさん」がいるであろうことだ。

罵倒おじさんとは、私が勝手にそう呼んでいるだけの存在なのだが、ようするに電車が止まったり遅延した時に、常軌を逸した剣幕で駅員を罵倒するおじさんの通称である。

罵倒おじさんの怒りはすさまじい。電車が止まった事で自分が被った不利益。自分が間に合わなければならなかった行事の重要性、鉄道会社の対応の問題、そして旅客輸送会社としての社会的責任。それらを舌鋒鋭く、というよりは、大量の唾を哀れな駅員の顔に吐きかけながら、支離滅裂な論理を叫び続けるのだ。

まるで全身が怒りに突き動かされているようなその様子に、私たちは驚き、次に納得し、そして次の瞬間にこう憐れむのだ。「駅員に言ってもしょうがないだろうに」と。

そう、罵倒おじさんは不合理だ。そんなに急いでいるなら、振替輸送のバスに乗り込むなり、出費を覚悟してタクシーを雇うなりすれば良い。駅員が彼一人の為に特急列車をしたててくれる可能性に賭けているかのような罵倒の時間は全くの無駄であり、損失ですらある。

さらによくよく見れば罵倒おじさんの風体は、どう見ても時間に縛られているそれではない。スーツは着ていないことも多いし、着ていてもよほどひどい吊るしの背広を5年は着潰したという様子で、このおじさんが時間どおり着くかどうかが社会に与える影響はほとんどないのではないかと思えるほどなのだ。

しかし、私が思うに、罵倒おじさんは二つの社会的役割を負っている。

一つは、電車が動かないといった、どうしようもない事柄に、怒りを抱くことの不毛さを、その大げさなアクションで我々に知らしめることだ。「ああはなりたくねえな」と思わせることだと言い換えてもいいだろう。

もう一つは、いくら支離滅裂とはいえ、彼の抗議にも一理はあることである。例えば、始発の段階で運休を予告しておけば、我々は違う交通手段を選択できたし、先方なり会社なりに早めに連絡する方法があった、などだ。
こういったことは、我々が各々で駅員に皮肉めいた言い方を何千回としたところで、神妙な表情をつくろった駅員に型どおりの謝罪が帰ってくるだけだろう。
しかし、罵倒おじさんは、こう言いながら、実際に駅員に唾を吐きかけ、構内中に響き渡る大声を上げてくれる。最初は神妙に頭を下げっぱなしにしていた駅員の表情もやがては辟易を隠せなくなる。

そう、これだ。我々の抗議に対して駅員(個人に責任がないことは明らかだが、鉄道会社の職員として)分担して欲しい損益はこの表情にあるのだ。罵倒おじさんはあまりにも合理的に振る舞う我々を代表して、我々のささやかな怒りを、復讐を、代行してくれているのだ。


改札階にたどりついた私が見た光景は、予想とは違っていた。

人は多いが相応に静かな構内。淡々と振替輸送の地下鉄入り口へと急ぐ人並み。粛々と発行される遅延証明書。柱を背にして、なにやら、携帯で先方に連絡をしているものはいるが、大声で駅員に突っかかっている罵倒おじさんはいなかった。

私は呆気にとられ、そして、何食わぬ顔をして、改札を出た。
流しのタクシーを拾い、二駅ほど先の目的地へ向かう。出費は痛いが、約束の時間には十分間に合いそうである。

車中で私は思う。そうか、罵倒おじさんも定年か。
思えば罵倒おじさんはいつも初老であった。最後の罵倒おじさんを見てから数年はたっていた。定年なのかもしれないし、このご時世だ。ああいった性格のおじさんが真っ先にリストラされるのだ、という話があったとしても私は驚かないだろう。

しかし、それによって我々が失ったものは、本当にないのだろうか、とも考える。これから世界は、世の不合理に厳かに怨嗟の呟く去勢された羊の群れだけが占めるのだろう。羊飼いは変わらず、羊を安全に囲いに追い立てるだろう。かつていた、わめき吠える野良犬がいないことに感謝しながら。

そう、世界は円滑にまわりだしたようにも思える。これでいいのだ。とこの文章を結んでも良いかもしれない。

しかし、私には不安がある、我々が、その羊に積もり積もった怨嗟が、一斉に羊の群れを突き動かし、羊飼いの頭を蹄で踏み潰す日が来ることはないのだろうか?と。

罵倒おじさんは寂寞を感じていたであろう。彼は合理的でスマートな羊達の囲いの外にいつもいた。

だが、我々を囲むこの心地良い柵がなくなった時、私達が寂寞を耐え忍ぶようなことが可能なのだろうか?

むしろ集団の恐れ知らずの心理状態によって、駅員を改札からひきずりだし、駅舎に火を放ち、電車を横倒しにしないことが、本当に保証されているのだろうか?

私は甚だ疑問に思えてならないのである。